自分自身をスキャンダルの手段として提示する

そして次は、ブルジョアの長男として生まれた学生のピエトロ。客の若者はピエトロの部屋で寝ることになる。眠っている若者に対して、ピエトロは何故か興奮して寝つくことができないでいる。悶々としているうちに、ピエトロは突然起き上がり、客人のベッドの方へと向かう……。

〈自分自身をスキャンダルの手段として提示すること〉(第一部十一章見出し)

この言葉はある意味でこの作品のモチーフといえるものであり、あるいはパゾリーニ自身のテオレマ(定理)であるのかもしれない。ピエトロは、エミリアと同じように若者のエロスにとらわれたのか、内なる欲望(生命)に抗しきれなくなり、市民社会的な規範を踏み外していく。

シルヴァーナ・マンガーノは、ルチーアというブルジョア家庭の夫人役として登場する。豪華な居間のソファーでくつろぐ姿は、まさしく貴種性を感じさせるマンガーノにふさわしく、その彫像的な白皙の美しさに時折、内面の不安や欲望を一瞬のうちに過らせる、その謎めいた表情がもつ不透明感は、この女優の真価を物語っている。ところで、このルチーアは若者が半裸の姿で犬と遊び回っている間、バルコニーで裸となり日光浴をしている。それが日常のありふれた習慣なのか、あるいはそうして若者がやってくるのを待っているのか。

「それを実現させるには、したがって彼女もまた決心する前に行動しなければならない。」(第一部十二章)「彼女もまた」というのは、ピエトロと同様にということで、ブルジョア的な規範や習慣が彼女を生きた現実から疎隔しているとすれば、決心する前に(つまり、市民社会的な観念に基づいて考える前に)行動することによってのみ、彼女は生命(いのち)ある現実をわがものにすることができるということだろうか。

〈その視線によってわが身を刺し貫かれるという歓び、

自らを望んで破滅させ、転落させるという歓び〉(第一部十二章)

そして、ルチーアもまた若者のエロスに誘惑されるがままに、欲望の暗い渦のなかへと身を委ねていく。まるでわが子と交わるかのように、情動の渇きの深みへと転落していく。

「今度は父親だ」(第一部十六章)精悍な顔立ちのマッシモ・ジロッティが、ミラノで工場を経営する父親(パオロ)役である。パオロはベッドの上で、悪い夢でも見ているかのようにうなされている。そして目が覚め、それが悪夢などではなく、身体的な不調であることに気づき、隣で寝ているルチーアを起こさないように部屋を出て、バスルームに向かう。それから家の外にでると、庭の木立から突然、パオロに向かって「眩い、すでに真昼間ででもあるかのように動かぬ、早朝の光が射し込んでくる。つつましくも、崇高なる光。」(第一部十六章)このシーンの映像は鮮烈である。予期しない、気にも留めなかった樹々の間から朝の眩い光が射しこむイメージは、パオロがこれから経験する宗教的な啓示あるいは精神的な変容を予告するかのようだ。まだ、朝の早い時間だというのに、真昼間のような強い光はパオロをその存在ごと捉え、そこで初めて、太陽の光を浴びてその存在を輝かせる樹々の美しさにも気づく。パオロにとって「今まで見たこともない早朝の光のように、すべては奇蹟的」(第一部十七章)である。

身体の不調を訴える父親を娘のオデッタ(アンヌ・ヴィアゼムスキー)と若者がベッドのそばで看病する。若者はパオロのためにトルストイの『イワン・イリッチの死』を読み始める。パゾリーニ好みのつつましい農民ゲラーシムの献身的な姿が描かれているところであるが、その最後の節を引用してみる。

「それ以来イワン・イリッチは、時々ゲラーシムを呼ぶようになった。そして、自分の足を肩に担がせながら、好んで彼を相手に話をした。ゲラーシムは気軽に、喜んで、造作なしにその役目を勤めた。そのうえ、彼の示す善良さが、イワン・イリッチを感動させるのであった。健康、力、活気、生命、こうしたものはすべて他人から見せつけられる時、イワン・イリッチに侮辱感を与えずにおかなかったが、ただゲラーシムの力や活気や生命となると、イワン・イリッチにいやな気を起させないばかりか、かえってその心を落ちつけるのであった。」(『イワン・イリッチの死』米川正夫訳、岩波文庫)

このトルストイの描く農民ゲラーシムに、パゾリーニは自らがしばしば使う「純粋な(puro)」とか「つつましい(umile)」という言葉で形容されるような理想的な人物像を見ているようだ。だから、客人の若者にもこのゲラーシムの姿が反映されている。

邸の広い庭園で、パオロは夏の日差しに照らされた世界の眺めを楽しみ、若者とオデッタは読書をしている。ちなみに、若者が読んでいるのは『ランボー詩集』。時折、パオロの視線が若者に向かい、その目は輝きを放っているように見える。その父の視線を追うように、オデッタの視線もまた若者に向かう。そうして、オデッタもまた、若者のエロスにとらわれ、その身体を若者の腕のなかへと委ねていく。

ある日、パオロと若者が車でミラノ郊外に遠出する。霧にかすむロンバルディアのポプラ並木が人けのない風景のなか、寒々とした情感を漂わせて、秋あるいは初冬を思わせる。樹々を輝かす太陽の光とてなく、ポー川の川面は暗く淀み、流域の人手の入っていない灌木地帯は自然の荒々しさを残している。

二人はまるで仲のよい親子のようにあるいは恋人同士のように歩いていく。そして、他の家族と同じようにパオロもまた、若者のエロスにとらわれていく。

こうしてつまりは、このミラノのブルジョア家庭にはなにが起こったのか。近親相姦をも想起させるような、スキャンダラスなできごとだろうか。純粋で透明なエロス的な存在によって、性的(身体的)にも精神的にも誘惑され、その存在を〈堕落〉あるいは〈解放〉あるいは〈破滅〉へと導かれ、市民社会的な秩序や習慣を失い、ブルジョアとしてのアイデンティティを喪失していく姿だろうか。映画の後半では、客人が去った後の、家族一人ひとりのその後の姿が描かれる。