客人が去った後

家政婦のエミリアは若者の去った後、すぐさま主人の家を出て、故郷の農村へ帰る。ロンバルディアの寒村にあるわが家の中庭でエミリアは、ベンチに腰をかけたまま動かず、何かにとりつかれたように虚空を見つめている。ここで描かれる北イタリアの農村地帯の農民たちが住む、集合的な居住区の映像が印象的である。

一方、娘のオデッタは若者の不在からくる空虚感をまぎらわすかのように、若者を写した写真を眺め、指でその身体をなぞっていく。そして、その下腹部に達したところで、突然その手を閉じ、固く拳を握りしめたまま、ベッドの上に横になり、目を見開いたまま、全く動かなくなる。医師もなす術がなく、家族の見守るなか、オデッタは病院に移される。そして、その白い病室で拳を固く握りしめたまま、オデッタは廃疾者として生涯を終えるのだろうか。

息子のピエトロは部屋にこもり、絵画の制作に没頭している。前衛的ともいえるその作業には、狂気の色さえうかがわれる。

母であり妻であるルチーアは鏡の前で髪を整え、化粧をしている。いつもの習慣のようでもあるが、若者のいなくなった今では違った意味を帯びている。このなんでもないようなシーンでのマンガーノの演技がいい。無表情だが、どこか飢渇感を漂わせる挙措がたまらない。そしてルチーアは車で街に出かけ、落ち着かない様子で若い男を物色しはじめる。〈自分自身をスキャンダルの手段として提示すること〉の苛烈な実践者ルチーアは、こうして見知らぬ若い男たちと情事を重ねるが、朝の光のなかで、ルチーアの顔の表情は苦痛とも恐怖とも見分けのつかない、歪んだものとなっていた。帰り道、ルチーアは野原のなかにぽつんと立つ礼拝堂を見つけ、その前で立ち尽くす。〈自らを望んで破滅させ、転落させるという歓び〉にひたりきることもなく、ルチーアはキリストの部屋のなかに入っていく……

 

エミリアといえば、しだいにただならぬ気配を帯び始めたその姿に、村人たちは聖性を感じ始める。村人たちはぞろぞろと集まりだし、エミリアの周りを取り囲む。そこに老婆のような中年の女がいて、腕に病気の子どもを抱えている。その子の顔には一面赤く小さなひび割れがあり、見るも哀れである。そしてエミリアの「奇跡」が生まれる。映像では『奇跡の丘』のシーンと同様、ばかげたものにしかなっていないが、小説からその部分を引用してみる。

「エミリアには何も見えていないかのようだ。ようやく彼女の目が病気の子どもの上に留まっても、それはその子が現実には存在しない、幻影としてしか存在しないかのようなのだ。それでも、彼女は長いこと、その子を熱心に見つめる―まるで聖なることというよりも、官僚的な職務をなんとかして遂行しようとするかのように。彼女自身が聖女である、その儀式への彼女の参加は、他の人々が聖女を受け入れるそのやり方そのものを通して実現される。あたかも、何か法典化されたもの、動かぬ盲目の聖者の行為に属する何ものかであるかのように。ついに――放心し、ほとんど悪意のある感じで――エミリアはそのひび割れだらけの子どもに向かって、ゆっくりと十字を切る。」(第二部五章)

すると、子どもの顔のひび割れは消えて、「奇跡」が実現する。その後、エミリアは天に召されたかのように、両腕を広げたままの姿で空中浮揚するシーンがある。天に架けられた十字架のイメージである。これらのパゾリーニの描く「奇跡譚」にあまり意味を与える気にはならないが、これらの宗教的な奇跡がありうるとすれば、それは農村のつつましい人々が幽暗のうちに体験する幻影でもなければ、エミリアに具現化された聖女の存在が意のままに創りだすものでもなく、人々が聖女という共同体にとって異質な存在を自分たちのやり方で受け入れ、その聖女とともに在るという未明の意識の共同幻想の世界においてであるということだろうか。パゾリーニがここで描きだしているのは、宗教の原初的な姿であり、素朴な農民たちが貧しい生活のなかでしだいに培っていく異質な存在(超越的な存在)への純粋な信仰である。このエミリアの奇跡譚を詩人パゾリーニは、次のような言葉で締めくくる。

「とは言え、このような出来事の証人となることが日常的なこととはいかないということは、わかっている必要がある。いつもの夕暮れ時のように、今まさに、ゆっくりと厳かに空から降りてくる暗闇が何をもたらすかは、いまのところ、誰も言うことはできないだろう。」(第二部十四章)

 

朝まだき、エミリアは老婆を引き連れて、なじみのベンチを離れ、村を出ていく。そして、ミラノ郊外の新しい住宅群が建設されようとしている広大な造成地にやってくる。パワーショベルが見える。パゾリーニの詩に「掘削機の嘆き(il pianto della scavatrice)」(一九五六)という作品がある。経済成長下のローマのあちこちで、建設工事が行われていて、そのすさまじい工事の音とそこで働く下層労働者の姿が記されている。何故かパゾリーニには、この無機質で荒涼とした風景にしか見えない工事現場への執着がみられる。

そのパワーショベルのそばに大きな穴があり、エミリアはそこに身を横たえる。エミリアの目からは涙が泉のように溢れ出ている。そして、そうと決められていたかのように、ついてきた老婆はエミリアの身体の上に土くれをかけていく。とうとうエミリアの身体が見えなくなると、老婆は務めを果たしたかのようにその場を立ち去る。パゾリーニの映画作品の主人公はほとんど死すべき運命にあるかのように死んでいく。『テオレマ』では、このラウラ・ベッティ扮する聖女エミリアということになるのだろうか。この建設現場の殺伐とした、どこにも人間的な匂いのない荒涼は、まるでパゾリーニ自身が殺害されたローマ郊外のオスティアの荒涼を思わせる。そうして、このエミリアを埋葬する老婆にパゾリーニの母スザンナが扮しているというのは、悪い冗談としか思えない。