工場を労働者に贈与する経営者

パオロは若者のいなくなった後、自分の工場を労働者に譲渡することを決意する。これこそ、ブルジョア社会にとって最大のスキャンダルである。映画冒頭の記者による工場労働者に対するインタヴューは、これを受けてなされたものである。少し長いが再現してみる。

記者:あなた方の経営者はあなた方に、この工場を贈与しました。あなたはこの行為をどう思いますか? この話のほんとうの主人公はあなた方の経営者であることに変わりはないのでは?

労働者1:ええ、確かに。

記者:例えば、将来の、あなた方の革命の可能性をこんなふうにして断ち切ることにはなりませんよね?

労働者2:たぶんねえ。

記者:しかし、あなた方の経営者の行為は孤立した行為なのか、それとも現代世界の一般的な趨勢に属するものなのか?

労働者3:そうだな、現代世界の一般的な趨勢だと思うけど。

記者:それを権力の新しい流れの象徴として考えるなら、こうした行為はすべての人間のプチブル化への、最初の前史的な寄与となりはしないですか?

労働者4:ブルジョアジーはすべての人間をブルジョア化することはできないと思う。

記者:つまり、仮説としてはこうだろうか。……ブルジョアは、たとえその工場を贈与しようとも、どんなふうに振るまおうとも、誤っていると。その通りだろうか?

労働者5:答えたくないな。

記者:こうしたブルジョアジーは自らの置かれた状況を革命的に変えつつあります。つまり、ブルジョアジーがすべての人間をブルジョアと同一化するに至るのなら、もはや勝利すべき階級闘争は彼らの前には存在しない。軍隊によるのでもない、国家によるのでもない、信仰の場としての宗教によるのでもなく。

労働者6:それじゃ、ブルジョアジーは負ける運命にあるんだ。ブルジョアジーは制度的な同盟者を失うのだから。

記者:しかし、ブルジョアジーにはいくつかの新しい問いかけがあり、彼らは自分たちの違った状況のなかで、それらの新しい問いかけに答えなければならない。

労働者7:確かに。

記者:あなたはこの問いかけに答えることができますか?

 

この記者の「問いかけ」にどれほどパゾリーニの考えが反映されているのかわからないが、例えば、「すべての人間のプチブル化」というところなどは、その後の高度経済成長で、先進国の資本主義社会ではかなりの程度で、実現されている(今現在は別にして)。それが〈贈与〉によるものではないとしても、ここでブルジョアの覚醒として描かれる、〈贈与〉というスキャンダルは、現在でも有効性をもった考え方だと思われる。

これを例えば、アンヌ・ヴィアゼムスキーが主演しているゴダールの『中国女』(一九六七)と比べてみれば、違いが明瞭である。『中国女』は奇怪な左翼的言語の羅列と毛沢東主義への無自覚な同調(つまりファッションとしての思想)で映画をつまらないものにしている。おそらく、パゾリーニは当時の左翼的な勢いのなかにあって、「左翼」ではあっても、その時代的な趨勢にのることなく、一方ではエミリアを通して、農民的で素朴な、原初的な宗教の在り方を追求し、また一方で、パオロを通して、ブルジョアのスキャンダルから市民社会の欺瞞性とゆらぎを描いていく。たとえそれが、作品としてはまとまりを欠いた、観念性の強いものであったとしてもである。

あるいは、ファビアン・ジェラールはこの冒頭のシーンについて、次のように書いている。(『パゾリーニあるいは〈野蛮〉の神話』内村瑠美子・藤井恭子訳)

「……自分の工場を工員たちにくれてやるというこの行為は、結局のところ、「贈与」と言うよりは、はるかに「遺棄」とそれに続く逃走であるといえる。」

これを「遺棄」あるいは「逃走」と考えるのが、六〇~七〇年代の左翼の常識的な発想ということになるのかもしれない。しかし、ブルジョアが工場を贈与することじたい、スキャンダルなのであり、このことはある意味で、市民社会での〈死〉を意味するのだから、これは「遺棄」でも「逃走」でもない。パオロは純粋で透明な存在にふれ、朝の光の洗礼を受けて、〈覚醒〉したのである。つまり、パオロはあらゆるものをかなぐり捨てようと意志したのであり、ブルジョアにしみついた「所有」の観念から解放されようと意志したのである。

そしてパオロは何故か、多くの人で混雑するミラノの中央駅へと向かう。大勢の人々が行き交う駅の構内で、パオロはしばらく立ちどまり、辺りをうかがう。すると、パオロは着ていた服を一枚ずつ脱ぎ始める。その奇妙な行為に気づいた通行人は不審げにパオロを眺め、去っていく。パオロはついに全裸となり、人々のなかを歩み始める。これは精神を病んだ男の変態行為への単なる「逃走」だろうか。