「神は民を荒野の道へと向かわせた」
わたしがこのシーンで思い浮かべるのは、アッシジの聖フランチェスコである。聖フランチェスコは、まだ信仰の途上にあるころ、裕福な家のお金を無断で持ち出したため、父親が司教にフランチェスコの召喚を訴えでていた。
「……ともかく司教は彼に金の返済を促した。『教会は、なんじが、なんじのものではなく、なんじの父のものであり、おそらくは不当に得たはずの金を教会のために使うことを望まない』。フランチェスコは同意し、すべてを返すつもりだと言った。そして、隣室に入ると、すっかり衣服を脱いで裸になり、手にした服の上に金を載せて、父と居合わせた人々のところへ戻ってきた。」(キアーラ・フルゴーニ『アッシジのフランチェスコ』三森のぞみ訳)
聖フランチェスコがこの世界のすべてをかなぐり捨てて、信仰への道を歩み出すように、パオロもまた、「おそらくは不当に得たはずの」あるいはブルジョア的に正当に得た工場を労働者に贈与し、さらにすべてのものをかなぐり捨てるかのように、人前で裸となる。またしても、ここでパオロが脱ぎ捨てた衣服が「ついに永遠に去ってしまった人の遺品」でもあるかのように映しだされる。もちろん、衣服を脱いで裸になるという行為には、この世界の欲望や所有といった執着から自由になるといった象徴的な意味が込められている、と思われる。そして、パオロは誰にも見られることもなく、そこを立ち去る。すると映像は、作品全編でくり返し挿入されていた「荒野」のイメージに変わり、いまやパオロは裸でその荒野を歩いている。作品冒頭には「神は民を荒野の道へと向かわせた」(『出エジプト記』、パゾリーニ自身の引用から訳出)という言葉が掲げられている。この「荒野」のイメージにはさまざまな解釈が可能だろうが、ここでは詩人パゾリーニの言葉による「荒野」のイメージを引用する。
「こうして、太陽が何ものによっても刻印されることのない地平線の一点に蘇ると、その時、まるで実在するものなど何もなかったかのように、あたりには前日と同じ姿と光をもった荒野があり、そして再び危険と死そのものと化した太陽のすさまじい熱があるのだった。」
「パオロは太陽の光と生きているという意識との区別がつかなくなるなかで、歴史のないその道を進んでいた。」(第一部二十七章)
確固として存在するのは太陽の熱と光だけであるような荒野をパオロは独り、まるで神に荷せられた苦役のようにひたすら歩く。そして、「歴史のない」つまり、資本主義的な経済活動や市民社会の規範などから自由となり、「太陽の光と生きているという意識」が判然としなくなったところで、パオロは自らの実存の底に突きあたり、絶望あるいは希望の叫び声をあげる。
このパオロの叫びやエミリアの涙は、この『テオレマ』が通俗的な、単なるブルジョア批判の映画なのではなく、現在でも有効な〈世界〉に対する問いかけをもった、未来にわたる作品であることを暗示している。