パゾリーニ探索5

〈現在〉を批判する『奇跡の丘』

                                兼子利光

 

 

ヘブライ的で激情的な

 

   受難 1             p・p・パゾリーニ

 

 キリストは身体のなかで

 死のにおい

 がするのを感じる。

 ああ、涙を流す

 のを自ら感じるとは

 何というおぞましさだ!

 マリーア、マリーア

 永遠の夜明け

 どれほどの苦しみが……

 わたしはかつて幼子だった

 そして、今日わたしは死ぬ。

 

            (『カトリック教会のナイチンゲール』一九四三年、所収)

 

『ラ・リコッタ』の宗教スキャンダルから一年後、パゾリーニは『奇跡の丘(原題『マタイによる福音書』)』(一九六四)を撮ることになるのだが、その前に『「奇跡の丘」のためのパレスチナ巡礼』というドキュメンタリーをつくっている。これは文字通り『奇跡の丘』を撮るために、カトリックの神父を道案内にして「マタイ福音書」にある通りのキリストが歩いた道程つまりガラリア湖、ヨルダン川、エルサレムなどを実地検証したものである。人間の気配のない荒涼とした砂漠、自然の猛威によって削りとられた荒々しい姿をみせる巨大な岩塊といったパレスチナの過酷な自然の映像とともに、イスラエルの「キブツ」でのパゾリーニのインタビューや牛を使って農作業をしている娘を見て、下層プロレタリアートを見いだしたのか歓喜するパゾリーニの姿もある。

とはいえ実際に『奇跡の丘』が撮影されたのは、イタリア南部のプーリア、バジリカータ、カラブリアである。オリアナ・ファラーチのいう「別の惑星」は古代的な宗教性、神話性を風土としてそのままに保ちつづけ、現代に至っていると、パゾリーニには感じられたのである。今では世界遺産として有名な観光地となったマテーラの〈サッシ〉やバジリカータに点在する古代や中世の城、プーリアの寒村の洞穴住居などをパレスチナ巡礼で得たイメージによって、パゾリーニはキリストの生きた時間・空間へと現代的に再構成したのである。

パゾリーニが『奇跡の丘』を構想するに至った経緯と状況を書き記したものを要約してみる。

〈……わたしはアッシジの宗教施設の客だった。そこにはその後も一度ならず何度も帰ってきたものだ。そこはわたしのような者にも、いつでも門が開かれていたのである。一九六二年十月二日、ジョヴァンニ二十三世が聖フランチェスコの墓で祈りを捧げるために、ヴァチカンを出てアッシジに到着するところだった。

わたしはベッドに横になっていた。わたしは街が人々の声や足音で高揚し、好奇心や幸福感で沸き立つのを耳にするのが心地よかった。わたしは大聖堂に向かって何千もの人々が歩いて行く足音、街の鐘という鐘が一斉に鳴り響きはじめるのを聞いた。わたしはあの当時、いっそう困難だと思われていた希望というものに心を開かせた、あの愛情あふれる農民ふうな法王に思いをめぐらした。……わたしもまた、一瞬、起き上がって出かけ、彼を近くから眺め、彼を見つめたいという欲望にかられたのだが、一方、わたしの頭上では鐘ががんがん鳴り響いていて、彼を見たいという欲望もすぐに消えてしまった。……衝動的にわたしはベッド脇に手を伸ばし、どの部屋にもある福音書を取った。そして、冒頭からそれを読み始めた。四つある福音書の最初、つまりそれはマタイ福音書である。最初から最後まで、まるでお祭り騒ぎの街の喧騒から自分を守ろうとしながら、しかし喜びをもって、最初のざわめきから出発する法王巡礼団に別れを告げる最後の鐘の音が鳴り響くまでの間、その困難であるが愛情にみちた全体を読み、本を置いたとき、わたしはかくもヘブライ的で激情的な作品こそ、まさにこのマタイ福音書なのだということに思いいたった。それまでも福音書についての映画の考えは何度も浮かんだが、その映画はそこで、その日、その時間に生まれたのである〉(『幻影の規則』より訳出)

アッシジはスパージオ山の麓の小さな丘の上にある街で、そこからは周囲に広がる平野を見渡すことができる。起源はローマより古いといわれ、現在の街の中心部の地下には古代の遺構を見ることができる。そして、聖フランチェスコによってアッシジは世界的に有名な宗教都市となっている。パゾリーニも何度か訪れていることがわかる。そこでジョヴァンニ二十三世のアッシジ巡礼という歴史的な日に遭遇するのだが、パゾリーニは街に出て人々とともに大聖堂に向かい、法王を拝顔するのではなく、施設の部屋に一人閉じこもり、街から聞こえてくる人々のざわめきや足音、鳴り響く鐘の音を耳にして、その瞬間を楽しんでいるようである。このアッシジという小さな街は無信仰者であっても、自然な宗教的感覚にみたされるようなところがあるが、ましてや法王巡礼という日、パゾリーニもまた街に出て人々とともに法王を見に行こうかという考えが一瞬よぎるほどの高揚感にとらわれるのである。しかし、そうはせず、部屋にあった福音書を読み、それが『奇跡の丘』の構想へと繋がっていったと、述懐する。

「奇跡の丘」とは邦題にすぎないが、まさしくアッシジの奇跡の丘というべきか。法王巡礼という宗教的な祝祭に身体を参加させずに、ただ街から聞こえてくる大衆のざわめき、法悦に心理的には同調しながらも、パゾリーニの精神は原始キリスト教の凄惨な物語に入り込んでいたのである。これは、パゾリーニの思想的な位相をよく示すエピソードであるように思われる。

それでは何故、マタイによる「福音書」なのか。

ニコ・ナルディーニはこう説明する。

「聖書のマタイ福音書でパゾリーニが魅了されたのは、キリストの歴史的な現実とキリスト教の解釈との間に存在する神話の豊かさである。この神話こそ、すぐに国際的な成功を勝ち得るその映画に一貫して流れる思想となっている」(『魂の詩人パゾリーニ』川本英明訳)

フランスのファビアン・ジラールはこうである。

「マタイ伝を選択したことに関して言えば、パゾリーニがマタイの説くキリスト像の気難しさや峻厳さ、絶対主義に魅せられ、自分自身の思想の理想的代弁者をそこに見出したことに疑いの余地はあるまい」(『パゾリーニ あるいは〈野蛮〉の神話』内村留美子、藤井恭子訳)

これらは映画製作上の利点を挙げているだけのように思われる。ただ単に、聖書のなかで「マタイ福音書」がパゾリーニにとって、映画化しやすかったと言っているだけだ。しかし、そうではなくパゾリーニがマタイ福音書を評した「ヘブライ的で激情的な」という言葉は、マタイ福音書のもっとも本質的な要素を指摘しているのだと、わたしは考える。

パゾリーニとは全く違った場所から、異教の地にありながら、むしろ異教の地であるからこそというべきか、マタイ福音書について本質的な理解を示した著作に吉本隆明の「マチウ書試論」がある。そのなかで吉本は次のように指摘する。ヘブライ聖書にあらわれる後期ユダヤ教のメシア観を、イエスという一人の人物のなかに集成するというかたちで思想を形成していった原始キリスト教は、ユダヤ教の倫理が社会化するとともに俗化していったユダヤ教社会に対して激しい批判をくり返していく。その過程で、宗教権力や社会から迫害され孤立していく原始キリスト教は神との直結という〈心情の律法〉とも言うべき、信ずるということの苛酷な倫理をつくりあげていった。そして、その倫理の激しい様相には原始キリスト教のユダヤ教に対する近親憎悪ともいうべき激しい憎悪があるとして、吉本は原始キリスト教の〈倫理〉ついて、次のようにいう。

「原始キリスト教は単に存在する現実を、人間の実存の意識と分裂させるために、倫理というものを社会的秩序と対立するものとして把握する。なんとなれば、現実的な秩序というものはかれらにとって動かすことができないものとして考えられたからである。ここから現実的に疎外され、侮蔑されても、心情の秩序を支配する可能性はけっしてうばわれるものではないという、一種のするどい観念的な二元論がうまれ、現実的な抑圧から逃れて、心情のなかに安定した秩序をみつけ出そうとする経路がはじまる」

 

 

この「倫理というものを社会的秩序と対立するものとして把握する」というマタイ福音書の要諦に、パゾリーニもまた感応したのだと思われる。現実の秩序から疎外、迫害されるなかで、その異様とも言える倫理の世界をつくりあげていったマタイによるイエス像はまた、八十件にも及ぶ裁判(ニコ・ナルディーニによる)を抱え、左右両翼の政治勢力から攻撃をうけ、そのスキャンダラスな存在ゆえにイタリア市民社会からの〈迫害〉を実感していたであろうパゾリーニの共鳴するものでもあるのだから。