思考する映像

 

『奇跡の丘』は教皇ジョヴァンニ二十三世に捧げられている。献辞は〈教皇ジョヴァンニ二十三世の愛すべき、喜ばしい、親しげな影に〉となっていたが、現在観ることのできる映像では〈影〉が〈思い出〉に改められている。その経緯は不明だが、〈影〉について、パゾリーニは〈影とは信仰の王にふさわしい清貧のことである〉と断っているように、否定的な要素のない詩的なイメージである。きらびやかな宗教権力に対するつつましやかな存在といった感じだろうか。この『奇跡の丘』はその信仰の王にふさわしい〈影〉の物語である。

作品は、無言のまま身重のマリアの姿が半円のアーチにかたどられた石壁を背景に映し出されるという、宗教的な象徴性を帯びた極めて絵画的な映像で始まる。〈キリスト生誕〉である。それに驚く夫のヨセフが見上げるのはベツレヘムの街ということになるが、この撮影地であるマテーラのサッシと呼ばれる洞窟住居が、山の急峻な斜面に蝟集する映像は神話的なイメージすら喚起させる美しいものである。世界遺産というものが存在しなかった時代にすでにパゾリーニとカメラのトニーノはそれを映像に収めていたのである。

それから、ベツレヘムの市場のにぎわいやヘロデ王による幼児虐殺のシーンが続く。そして、成人したイエスが初めて姿を現す。ヨルダン川で洗礼を施す預言者ヨハネから洗礼を受けるためである。この場面をマタイ福音書から引用してみる。

「私はお前たちに、回心に向け、水によって洗礼を施している。しかし私の後から来たるべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらもない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう」(佐藤研訳)

これはヨハネのアジ演説のような激しい説教の最後にあたる言葉だが、こうしてようやくイエスが現れる。イエスはすでに神格性を備えていて、いつでも上方にあるかのように印象され、ヨハネは天を仰ぎ見るかのようにイエスを見上げる構図で映し出される。背景となっているのは美しい渓谷で、小さな滝が沢となって流れ下る小さな川のほとりでのイエスの受洗は実に生々しく、神聖なものに感じられる秀逸なシーンとなっている。

そして、荒野での悪魔の試み、弟子たちの獲得、民衆に対する教えと癒し(奇跡の行為)がある。例えば、イエスが荒野を影のように一人歩いていて、土地の農民たちとのすれちがいざまに、イエスは〈悔い改めよ、天国は近づいた〉と言葉をかけるシーンがある。いきなり異形の見知らぬ者から奇妙なことをささやかれ驚き、振り返ってイエスを見る農民たちの姿。当時の新興宗教である原始キリスト教の伝道とは、あるいはこんなふうに始まったのだろうかと思われる場面である。

そして、荒野のなかを人々に布教して歩くイエスたちの姿と神の言葉を伝えるイエスの姿が巧みに織り混ぜられ、その言葉はイエスを演じるエンリケ・イラツォキ(声の吹き替えはエンリコ・マリア・サレルノ)の決然とした口調と小気味いい滑舌で、一つの説教ごとにカットを替えて語られる。いわゆる宗教的な説教とは違い、その倫理的な激しさがイエスの言葉となって溢れ出てくるようだ。

マタイ福音書のなかでも有名な箇所である、イエスが故郷で宣教する場面は、老いたマリア役としてパゾリーニの母スザンナが出演し話題ともなったが、建物の高みからまるでアジ演説のように説教するイエスが家族の姿を見て、それを拒否し、故郷の人々が〈あれは大工の息子ではないか、その母もその兄弟も知っている〉〈いったい、このようなことすべてが、どこからこいつにやってきたのか〉とささやき疑い、イエスに躓く。この〈預言者は故郷では迎えられない〉のシーンでは、言葉だけではイメージしきれないリアリティをパゾリーニの映像は与えている。その映像は思考するかのように聖書の言葉を刻んでいる。

ところで、パゾリーニはマタイ福音書に忠実で、いわゆる〈奇跡〉のシーンも忠実に描いている。〈らい病人の癒し〉〈四千人の供食〉〈海上歩行〉などである。例えば、〈四千人の供食〉をマタイ福音書から引用すると、

〈……すると弟子たちが彼に言う。「この荒涼としたところで、これほどの群衆を満腹させるためのパンが、どこから私たちの手に入るのですか」。するとイエスは彼らに言う、「あなたたちは、パンをどれほど持っているか」。彼らは言った、「七個です。それに小魚が少しです」。そこで彼は、地面に横になるように群衆に指図した後、七個のパンと魚をとり、感謝して裂き、彼の弟子たちに渡した。そして弟子たちは群衆に与えた。そこですべての人々は食べ、満腹した。……食べた者は、女子供を除いて、男四千人であった〉(佐藤研訳)

これはヘブライ聖書では神話として語られ、そのなかでのみ了解可能な〈奇跡譚〉が、マタイ福音書では超自然的な、都合のいい話に変えられてしまっている。これをそのまま映像化してしまえば、どうなるかは明らかである。病のメイクをした病者の顔にイエスが手を触れただけで、顔が元通りになるというシーンなどは病のメイクが粗雑なだけに見るも無残な映像となっている。あるいは、この七個のパンと小魚のシーンもまた、ただカットを替えて撮っているだけの、幼稚な映像としてしか〈奇跡〉を表現できていない。これはパゾリーニの映像観からも逸脱するもので、このすばらしい作品の唯一の瑕疵といえるかもしれない。