励起するイエス

 

その後、捕らえられた預言者ヨハネはサロメというかわいらしいが、気まぐれで残酷な娘の所望によって斬首される。さらに、民衆に浸透し始めたイエスの教えに危惧の念を抱いたユダヤ教社会の権力者たちは、イエスを抹殺することを企図する。それはイエスのエルサレム入城で決定的となる。イエスは神殿に入り、そこで商売をする者を追いだし、その市場を破壊する。すると子どもたちがイエスのもとに集まり、イエスを歓迎する。ここで初めてイエスは笑みを浮かべる。もちろん、マタイ福音書には「笑みを浮かべる」という記載はないから、これはパゾリーニの演出であるとおもわれる。

そして、ユダの裏切り。この〈ベタニアの香油〉といわれる場面でのイエスとユダのやりとりの描写が面白い。香油をイエスにふんだんに振りかける女を「むだ使いするな」ととがめたユダはそのことでイエスに叱責される。これは最後なのだから、女を責めてはならないと。するとユダはそれを不愉快に思ったのか、血相を変えて席を立ち、走り出す。それから権力者のもとへ行き、イエスを売り渡す。イエスとのほんのわずかな心理的な齟齬がユダを躓かせる。こういった登場人物の心理が微妙に揺れ動くシーンでは、バッハの「マタイ受難曲」が効果的に使われ、心理の深みにまで降りて行くような感覚におそわれる。

ユダの密告によりイエスは捕らえられ、刑が下されるのだが、その様子は弟子たちの視線として遠くから捉えられる。時折、映像が揺れるのは弟子たちの動揺を表しているのだろうか。今まで身近に在ったイエスが、いまや遠く隔たったところに在るという意味では効果的な映像といえる。そして、十字架を背負い、ゴルゴタの丘へと連行されるイエス。

荒涼としたゴルゴタの丘の上で、十字架に打ちすえられるイエス。その十字架に打ちすえられ横たわるイエスが突然、十字架とともに垂直に起こされるのだが、それはとても異様な印象を与えるシーンとなっている。つまり、イエスがあの永遠のシンボルとして立ち上がるのだ。あるいは、イエスのイメージが映像のなかで励起するのである。聖書では「復活」のことを「起こされる」と表現しているが、まさしくこれはその「起こされる」の映像表現である。それは驚きであり、新しい映像体験と言いたいほどである。

このイエスの励起の映像で、パゾリーニはマタイ福音書によるイエス像を我がものとしたかのようだ。それは、原初的な宗教のもつ倫理的な激しさ、攻撃性、反権力性、子どものような純粋さ、純粋であることの苛烈さであり、宗教の〈現在〉に対する批判である。