2015年のおわりに
年が暮れ、そして明けようとしています。この季節になると人々は浮き浮きとしだして、まるで子供にもどった気分になります。なぜでしょうか。きっと季節の巡りのうちでこのときが一番「未来」を感じさせるからだと思います。人間は過去ばかりを見ては生きていられません。疲れた大人たちは、子供のころに抱いていた輝かしい未来を、このシーズンに一瞬だけ取り戻すことができます。
だから、もしかしたらこの季節が一番子供のための詩を読むのにふさわしいのかもしれません。人生が希望に満ちた素晴らしいものであると伝える子供のための詩……。
しかしそのような詩を探そうと本棚を漁ってみても案外見つかりません。むしろ子供のころに抱いていた淋しさや悲しさを募らせる詩ばかりです。不思議です。詩というのは、希望をもたらさないのでしょうか。ここでひとつ、とても有名な詩をあげてみます。
砂の王国 金子みすゞ
私はいま、
砂のお国の王様です。
お山と、谷と、野原と、川を、
おもう通りに変えてゆきます。
お伽ばなしの王様だって、
じぶんの国のお山や川を、
こんなに変えはしないでしょう。
私はいま、
ほんとにえらい王様です。
金子みすゞ(1903-1930)はいまでは国語の教科書に載ったり、テレビCMで流れたり、曲がつけられ多くの歌手が歌ったりと、日本ではもっともポピュラーな童謡詩人と言えます。特にその厳しい実人生と早すぎる自死(26歳)が、その童謡詩に陰影を落として多くの読者に切なさを伴う感動を与えます。
上の詩も、それまで誰にも褒められたことのない少年または少女が、公園の砂場で一人遊びに耽っている切なさを感じさせます。金子みすゞの詩にはそのような暗く、ときに残酷でさえある子供の心をうたった詩が多いですが、これほどの人気を博しているということは、日本人の「子供心」の特色は希望のない「暗い」ものなのでしょうか。
前回取り上げたクリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)の童謡詩も、実はとても暗い側面があります(前回の掲載はなんと夏でしたので、もう半年が過ぎてしまいました。tarの怠慢をお許しください)。
Dead in the cold, a song-singing thrush,
Dead at the foot of a snowberry bush,ー
Weave him a coffin of rush,
Dig him a grave where the soft mosses grow,
Raise him a tombstone of snow.
歌いつづけたつぐみが、真冬に死んでいました
スノウベリーの茂みの下で死んでいました……
小さな棺を織り上げて
柔らかな苔がいっぱい生えた土の下に埋めて
雪のお墓を建てましょう。
拙い訳ですが、クリスティーナの童謡詩集『Sing Song A Nursery-Rhyme Book』(1872)に入っています。詩集のタイトルと、この詩で描かれた「song-singing thrush(歌いつづけたつぐみ)」が重なり、つぐみがクリスティーナ自身のように思えて切なくなります。でも、これは金子みすゞの切なさとはどこか違いますね。
みすゞの詩は、いつも孤独な子供の視点から描かれています。クリスティーナの詩はつねに母の視点で子供に呼びかけています。つまり前者は一者であり、後者は二者です。クリスティーナの詩はほかにも、特に「motherless child(母なし児)」を描くことが多いですが、その孤独な子供への同情の眼差しが、キリスト教の慈悲の精神に支えられて強く出ています。19世紀末のイギリスでは産業資本主義の蔓延によって貧富の差が拡大し、孤児の増加が社会問題になりました。よって教会が孤児院を多く設立し子供たちを救済しました。特に子供の労働環境の凄惨さはディケンズの『オルヴァー・ツイスト』(1838)によく描かれています。クリスティーナの慈悲の精神は、だから当時の時代を反映した「聖母」の詩であり、「救済」の詩として人々に読まれました。ではみすゞはどうだったのでしょうか。
みすゞが生きた明治から大正、昭和初期の日本において、子供が置かれた状況はやはり過酷なものでした。富国強兵を唱え急速に近代化をすすめる明治期の日本では、子供は労働者として扱われましたが、大正期では国家の未来を支える存在として、女性には多産が求められ、教育制度も整えられました。当然その後の昭和では子供たちは成長して戦争に駆り出されます。簡単には語れませんが、日本では宗教的精神よりも、国策によって子供は救済もされ、かつ搾取もされたと言えます。みすゞの詩はそのような国家に緊縛された子供に寄り添いうたっているように思えます。
特にみすゞが活躍したのは大正期です。大正時代はあの「赤い鳥」が創刊されるなど、児童文学が隆盛を極めました。そこでみすゞとクリスティーナはひとりの詩人によって結びつけられます。西条八十(1892-1970)です。彼が金子みすゞの才能を見出し、またクリスティーナを日本に紹介するのですが、このことの詳細はまた後日に語るとして、私はみすゞとクリスティーナのこの時期における交差に、近代以降の日本人がもつ「子供心」の発生を見るようでとても興味があります。
少し私事になりますが、クリスマスシーズンになると私は子供のころ母が家に流していたイギリスの少年合唱団が歌うクリスマス・キャロルの擦り切れたレコードを聴きます。いまは手狭な、薄汚れたワンルームで聴いていますが、ある意味では幸福だった少年時代をゆっくりと懐かしめる一年で唯一のときです。定番のキャロル「Silent Night(聖しこの夜)」はもとより、「O Come All Ye Faithful(神の御子は今宵しも)」、「Les Anges dans nos campagnes(天のみつかいの)」などなど。わたしは特に「The First Noel(牧人羊を)」が子供のころとても好きでした。歌詞の意味などよくわからなくても、「ノエル、ノエル」のリフレインが高まっていく旋律が、子供ながらに心地よかったのだと思います。クリスティーナの詩「In The Bleak Midwinter」もホルストの作曲でキャロルに歌われていて愛聴します。
でもこれらは私にとって何ら「救済」的ではありませんでした。むしろみすゞの詩のような「一人遊び」を愛しました。キャロルの旋律に聴き惚れながら、私の子供時代はどこか孤独でした。大正期ももしかしたら私のような感覚の子供が日本には多くいたのではないかと想像します。
ただ間違ってはいけません。日本人の「子供心」が孤独であり、西洋人のそれが孤独でないのではない。逆であります。みすゞの童謡詩は常に母が子に同化している点で、子にとっては母と一体となった温もりを感じさせます。逆にクリスティーナの詩は母が決して子になれない点で、子は徹底して孤独です。子供が孤独なのは西洋なのです。
この大人になっても子供に同化できる日本人の「子供心」と、大人になったらけっして子供に戻れない西洋人のそれの差は決定的とも言えます。その意味では日本人は大人でも「子供心」を呼び覚ましやすく、西洋人以上にこの季節を楽しめる贅沢な民族なのかもしれませんし、逆にいつまでも大人になりきれない未熟な民族なのかもしれません。
ただ一つ共通するのは、大人が真剣に子供のために詩を語りかけるとき、それは西洋でも日本でも常に安易な希望ではありえないということです。なぜなら大人は人生があまりに希望に不足していることを知っているからです。だからこそ子供に向けてうたうのだと思います。「もう一度生き直せたら……」、とその切なく暗い願いが両者をまたぐ「詩の本源」なのだと思います。
もう年が暮れます。そろそろ筆をとめ、人々とともに子供たちとともに、今年起きた多くの悲惨を顧みつつ、やがてくる新年の幸を祈りたく思います。
In The Bleak Midwinter
Tar:詩と児童文学愛好家。1973年生まれ。山羊座。
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