はじめに

 

「子供のための詩」というテーマで、これから思うままに書いていこうと思います。といっても私は児童文学の専門家ではありませんから、ここでは「子供のための詩」を大人の目線(教育者の目線)から網羅的に紹介するというより、私の心のなかでいつまでも育ちきらない少年に向けて、彼が素直に受け入れてくれるであろう詩について述べるだけです。

 

俗に詩人のなかには少年少女がいる、などと言いますが、よく言われるだけにその通りだと思います。私は長く絵本や児童文学が好きで読みつづけてきましたが、その理由をよく考えてみると、やはり幼少期に母親から読み聞かせられた世界中の絵本や児童文学の影響が大きいと思わずにはいられません。どうやら今も私のなかの少年が、母親の語る声を求めている節がある。

 

本音を言うと、そのようなことをあまり口外しませんでした。いつまでも大人になりきれない自分が嫌だったからです。しかしもう諦めました。最近は、もっと子供に、いや自分のなかの子供に素直に心を傾けようと思います。

 

この連載では、そうした私個人の思いも込められているので、どちらかというと内向的で、ときにくらい「子供のための詩」について書こうと思います。

まず、最初に取り上げたいのは以下の英語の詩です。

 

Angels at the foot,

  And Angels at the head,

And like a curly little lamb

  My pretty babe in bed.

 

これはクリスティーナ・ロセッティ(1830―1894)の『Sing Song A Nursery-Rhyme Book』(1872)という詩集の冒頭詩です。私はこの詩集が好きで長く読んできました。訳してみると、

 

天使たちが足元にいます、

 頭上にもいます、

巻毛の仔羊のように

 私の赤ちゃんは寝ています。

 

となります。拙い英語力ですが、雰囲気を大事に逐語訳はせずに訳したく思いました。

 

 

 

 

一読して、これが明らかにキリスト教精神に貫かれた詩であることは分かります。母親であるロセッティが我が子をキリスト(神の子)に重ねているのでしょうか。同時に自分を聖母マリアに重ねているのでしょうか。敬虔なキリスト教詩人の我が子の生誕を祝うシンプルなナーサリー・ライム(童謡詩)と読めます。しかし、このシンプルな詩も、ある視点から見直すとそう簡単には読めなくなってきます。

 

まずクリスティーナが、兄ダンテ・ガブリエル・ロセッティの影響のもとにいたことは重要です。兄は詩人・画家として、産業革命後の英国に蔓延した物質中心主義に対して、ルネサンス以前の古き良き宗教世界への回帰を提唱し、ラファエル前派という芸術運動を起しました。これは近代美術史のなかでも大きなエポックとして語られ、特に最近は、21世紀における芸術の方向性をしめす道標として再評価されています。妹のクリスティーナも当然ながら、その芸術運動の一端を荷なっています(詩集の挿絵のアーサー・ヒューズもラファエル前派の画家のひとりです)。

 

このような美術史に関することは表層的な知識に過ぎませんが、単にこの詩を「敬虔なキリスト教詩人による童謡詩」という漠然とした捉え方で読むより、そうした19世紀英国の特殊な歴史的背景があることは頭の隅においておくのもいいかもしれません。というのも、もし私たちがいま「子供のための詩」を子供に聞かせるならば、私たちがいま生きている21世紀という時代、特にこの日本の21世紀という時代がどのようなものであり、子供が成長して生きていく未来がどのような時代へと進むのかを自分なりに知っておかなければ、単なる子供をあやす大人の自己満足に堕してしまうからです。

 

例えば、この詩をむかし読んだとき、子供のころ観て涙したウィーダ原作のテレビアニメ『フランダースの犬』の最終回のラストシーンを想起しました。大聖堂のルーベンスのキリスト画の前で死んだ少年ネロと犬のパトラッシュを、天使たちが天国へと運んでいくシーンです。この私の連想に従うならば、先のクリスティーナの詩は、我が子の誕生の詩ではなくて、我が子の死を描いた詩とも読めてきます。

このクリスティーナとウィーダをつなげた私の直感は偶然ではありません。『フランダースの犬』もまた、ロセッティと同時代の19世紀英国の作家ウィーダが、当時の荒廃した社会で失われていくキリスト教芸術の聖性を、子供たちに伝えようと書いた児童文学だからです。それがなぜ高度経済成長期後の繁栄を謳歌する日本社会でアニメ化されたかはおおよそ察しが尽きます。

 

私たちは知らない間に、子供の頃からこうした巡り巡る時代のなかで受け継がれてきた詩に感動し、芸術作品に感動し、それをまた子に伝えて死んでいきます。この世代の連鎖の背後には必然的に歴史の連鎖が作用し、ときに強い宗教性を孕んで「子供のための詩」が生成されていく。これはいま大人が自己表現として同時代の大人に向けて書く現代詩とは同じ「詩」であっても似て非なる性質のものです。むしろ「子供のための詩」は、子供の被影響力の強さゆえに、より広く伝播し浸透しやすいので諸刃の剣でもあります。

 

ちょっとややこしい話をしてしまいました。もとに戻ると、私がいまもまだ母の声を求めて詩を求めているとしたら、そろそろ私自身が私のなかの育ちきらない子供にとっての母親にならなければいけない、そのようなことを念頭にクリスティーナ・ロセッティの母から子への詩について、次回もつづけて書いていこうとおもいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Tar:詩と児童文学愛好家。1973年生まれ。山羊座。

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