珈琲店 酔月    萩原朔太郎
坂を登らんとして渇きに耐えず
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を囲み
我れの酔態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭(ぜに)を数へて盗み去れり。


 「図書」で連載されている四方田犬彦氏の「日本の書物への感謝」は、その大乗的エクリチュールが、いつも刺戟的だ。その四方田犬彦が、この初夏に、『人生の乞食』という詩集を上梓した。集中の一篇「摩滅の賦」は、詩の詩という趣がある。摩滅を生きるものに思いをいたしながら、今日もまた詩を読む。上は、わが偏愛の一篇。(文責・岡田)