2007年10月08日
水のほとりに 三富朽葉
水の辺(ほと)りに零(こぼ)れる
響ない真昼の樹魂(こだま)。
物の思ひの降り注ぐ
はてしなさ。
充ちて消えゆく
もだしの応(こた)へ。
水のほとりに生もなく死もなく、
声ない歌、
書かれぬ詩、
いづれか美(うるは)しからぬ自らがあらう?
たまたま過ぎる人の姿、獣のかげ、
それは皆遠くへ行くのだ。
色、
香(か)、
光り、
永遠に続く中(なか)。
詩の(「現代詩」の)起源を尋ねる旅は、ついに己れを尋ねる遍歴でもあるのだろうか。柳村上田敏の『海潮音』をしるべに、象徴の森をさまよっているとき、三富朽葉(みとみきゅうよう)を読むと、一瞬、視界が開かれる印象を覚える。
「おお季節、おお寨(とりで)!
如何なる魂か欠点なき?」(三富朽葉訳)
大正六年、二十九歳の朽葉は、千葉・犬吠岬で今井白楊とともに溺死する。”青春の詩人”三富朽葉が残した詩篇は、いまも「遠くまで」行くようにと誘惑してやまない。(文責・岡田)
響ない真昼の樹魂(こだま)。
物の思ひの降り注ぐ
はてしなさ。
充ちて消えゆく
もだしの応(こた)へ。
水のほとりに生もなく死もなく、
声ない歌、
書かれぬ詩、
いづれか美(うるは)しからぬ自らがあらう?
たまたま過ぎる人の姿、獣のかげ、
それは皆遠くへ行くのだ。
色、
香(か)、
光り、
永遠に続く中(なか)。
詩の(「現代詩」の)起源を尋ねる旅は、ついに己れを尋ねる遍歴でもあるのだろうか。柳村上田敏の『海潮音』をしるべに、象徴の森をさまよっているとき、三富朽葉(みとみきゅうよう)を読むと、一瞬、視界が開かれる印象を覚える。
「おお季節、おお寨(とりで)!
如何なる魂か欠点なき?」(三富朽葉訳)
大正六年、二十九歳の朽葉は、千葉・犬吠岬で今井白楊とともに溺死する。”青春の詩人”三富朽葉が残した詩篇は、いまも「遠くまで」行くようにと誘惑してやまない。(文責・岡田)
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