(吹く風を心の友と)  中原中也
吹く風を心の友と
口笛に心まぎらはし
私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は
煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、

とんで行つて、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
耳を澄ますと
げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる

あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
あの日の昼のまゝに
あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる

それが何処か?――とにかく僕に其処へゆけたらなあ……
心一杯に懺悔して
恕(ゆる)されたといふ気持の中に、再び生きて、
僕は努力家にならうと思ふんだ――


 師走に中也の詩集を繰っていると、このままずっと読んでいたい気分になる。朔太郎の「珈琲店 酔月」が絶対孤独の境涯であるとするならば、中也の「カフヱーにて」は純粋孤独のそれであろうか。上記の詩は未刊詩篇ということで、いつ頃書かれたものか不明だが、「それはもう結構なさびしさでございました」「カフヱー」から下宿に帰って、ひとり原書に向かう努力の人、中也がふとノートに書き記した一篇という印象がある。(文責・岡田)