生けるもの  高村光太郎
何事も戯(たはむれ)にして、何事も戯ならず
戯ならずと言はむにはあまりに幼し
戯なりと言はば自ら悲し
我も生けるものなり
公園に散る新聞紙の如く
貧く、あぢきなく、たよりなく
雨にうたるるまで
生けるものをして望むがままに生かしめよ
                (明治43年)


 啄木が「はてしなき議論の後」などの諸詩篇を書いた明治44年(1911年)の一年前に、高村光太郎は「失はれたるモナ・リザ」や「生けるもの」「寝付の国」などを書いていた。「さて、此号(「明星」)を読んで、自分が一番感謝したのは高村光太郎氏である。(略)鋭どい針をもつた谷の嵐は人間の声である。人間は詩人よりも豪い。と自分は思つた。人は何といふか知らぬが、自分は高村氏が豪いと云ふ。」と、啄木が書いたのは明治40年(1907年)。「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」と、光太郎は「暗愚小伝」の一節に書いたが、それはいつのことだったのだろう。
 「元来私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、(略)実はそれが果して人のいふ詩と同じものであるかどうかさへ今では自己に向つて確言出来ないと思へる時があります。(略)藤村――白秋――朔太郎――現代詩人、といふ系列とは別個の道を私は歩いてゐます。」(「詩について語らず」より)
 高村光太郎という「詩人」は、ただ詩だけでは覆えない「詩人」である。詩から、詩人から、はみだしていく高村光太郎がいる。だが、それゆえにこそ、詩とはなにか、という思索に導いてくれるところがある。高村光太郎を読むことを通して、詩とはなにかを少しずつ考えていきたいと思う。(文責・岡田)