「泥七宝」から  高村光太郎
ちらちらと心のすみに散りしくは
泥七宝か、眼に見えぬ
羽蟻の羽根か、ちらちらと
掃きすつるもいとほし

 ○

家を出づるが何とてかうれしき
夜になれば何とてか出づる
どうせ夜更けにうなだれては帰るものを

 ○

きりきりと錐をもむ
用はなけれど錐をもむ
錐をもめば板の破るるうれしさに

 ○

つくづく見れば厭な顔
家(うち)で思へば好いた顔
髪の黒さよ

 ○

女よ、高ぶるなかれ
高ぶる値あればこそ高ぶるなかれ
いかなる男かその値を非(なみ)せむ

 ○

酔へる人のうつくしさよ
酔へる真似する人の醜さよ
カフエの食卓ぞ滑稽なる

 ○

人ごみのおもしろや
兎も角も君をふり返り見る人の多ければ
浅草の仲見世

 ○

妻もつ友よ
われを骨董のごとく見たまふなかれ
ひとりみなりと

 ○

腹をたつたむかしもあるに
わらつてすます今日の身
もうおしまひのわれか


 「泥七宝」は、詩集『道程』のほぼ真ん中に置かれた一連の抒情小曲風の断片群である。「東京の情炎は私を寸時も平安にしておかなかった。私は無意識裡に自分の夢想する一女性の原型的なものを求めて彷徨し、結局現実的には堕落した日々を送つていろいろな女性に会つた。『泥七宝』の小曲類はその間に書いたもの」と光太郎は書いているが、それは明治44年夏から大正元年秋にかけてのことであった。長沼智恵子が高村光太郎のアトリエを訪ねるのは明治44年12月。「今見ても、『道程』は『泥七宝』の小曲を境として截然と前後に切れている」と、昭和16年5月に書かれた「某月某日」で光太郎が書いているとおり、この時期を境として彼はデカダンから離脱していった。(文責・岡田)