秋の悲歎  富永太郎
 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の顎に、私は千の静かな接吻を惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。


 大正13年秋、富永太郎は「秋の悲歎」を小林秀雄に「ははあランボオばりだな、と言つてもいい。とにかく日本流行の〈情調派〉でないといふレッテルをつけてくれたら本望だ。出来不出来は問はず」という手紙を添えて送った。翌年11月12日、太郎は、鼻に詰めていた酸素吸入器のゴム管を「きたない」といって自らその管を取り去った。24歳で夭折した太郎が残した詩篇は37篇、そのうち生前に発表したのは8篇だった。
 大岡昇平「富永太郎伝」の終わりの数行は、詩について、詩人について、考えさせる。「……ゲーテは大詩人であるがランボオは狭い、と人はいふ。しかしよく考へて見れば、かういふ価値判断を下す我々の心には、たゞ他人と等しからざらんことを怖れる意識しかないのがわかる。もし我々が今日尨大な世界の文化遺産から真に自己に必要なものを選り出す術と、必要なものだけを愛する勇気を持つならば、甲が乙より優れてゐる、劣つてゐるは問題ではない筈である。/常に自己を失ふまいとする勇気と忍耐を持つ人々にとつて、富永太郎の詩句はいつまでもその親しい行動のリズムを伝へて止まないであらう……」。(文責・岡田)