雲の信号  宮沢賢治
あゝいゝな せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしよう)だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁欲のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる


林と思想  宮沢賢治

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
  こゝいらはふきの花でいつぱいだ


 宮沢賢治は、いつも散歩していた――というか、気がつくと、まず歩いている人だったと思う。「雲はたよりないカルボン酸」などということば、歩いていなければ生まれてこないだろう。
 そしてまた、宮沢賢治は、いつも自然と交歓していた――というか、草木や禽獣虫魚の声を聞くことができる人だったと思う。さればこそ、と得心できる詩句はいくらでも見出せる。
 散歩する賢治には雑念がなかった。いや、この云い方は正しくない。雑念はありすぎたが(「おれはひとりの修羅なのだ」)、歩いていると、自然と交歓していると、雑念は消えていくのだった(「(このからだそらのみぢんにちらばれ)」)。
 上記の詩なども、散歩の折に書き留められたものだろうか。賢治は誰と話しているのだろう。(文責・岡田)