ミニヨンの歌  ゲーテ(新声社/森鴎外訳)
   其  一
レモンの木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子〔かうじ〕は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き
ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

   其  二
高きはしらの上にやすくすわれる屋根は
そらたかくそばだちひろき間もせまき間も
皆ひかりかゞやきて人かたしたる石は
ゑみつゝおのれを見てあないとほしき子よと
なぐさむるなつかしき家をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

   其  三
立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて
いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には
いと年経たる竜の所えがほにすまひ
岩より岩をつたひしら波のゆきかへる
かのなつかしき山の道をしるやかなたへ
君と共にゆかまし



 明治15年(1882年)に刊行された『新体詩抄』の理念は、著者のひとり、井上哲次郎の「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ヲ作ル所以ナリ」ということばに明らかであり、そのとき範とされたのは西洋の詩(ポエトリー)であった。日本の近代詩史において、『新体詩抄』が刊行されたことの意味はたいへん大きいが、その試みは実りあるものとはいえなかった。「古ヨリイハユル詩ニアラザル」といえる新しい詩のかたちが登場したのは、続く明治22年(1889年)、雑誌「国民の友」の夏季附録として発表された、新声社/森鴎外による訳詩集『於母影』においてであった(ちなみに、この年4月に北村透谷の『楚囚之詩』が刊行されている。上田敏の『海潮音』が刊行されるのは明治38年(1905年))。その清新さはもとより、「意訳」(原作の意義に従うもの)、「句訳」(原作の意義および字句に従うもの)、「韻訳」(原作の意義および韻法に従うもの)、「調訳」(原作の意義、字句および平仄韻法に従うもの)の四つの方法が試みられたことも記憶に残る。
 『於母影』について、蒲原有明曰く、「ゲエテの『ミニヨンの歌』に至る時、誰しもその妙技を讃嘆せぬものはなからう。わたくしはこれを以てわが邦に於ける訳詩の白眉とするに躊躇しない」。『海潮音』に先立って、『於母影』が日本の近代詩史において果たした役割は大きかったと思う。「句訳」による、この「ミニヨンの歌」の訳者は、鴎外の妹である小金井喜美子という説もあるが、訳稿を最終的にチェックしたのは鴎外であろう。「かなたへ/君と共にゆかまし」のルフランは、日本近代詩の鹿島立ちを告げているようでもある。(文責・岡田)