蝶のゆくへ  北村透谷
舞ふてゆくへを問ひたまふ、
  心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
  尋ねて迷ふ蝶が身を。

行くもかへるも同じ関、
  越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
  花なき野辺も元の宿。

前もなければ後もまた、
  「運命」〔かみ〕の外には「我」もなし。
ひらひらひらと舞ひ行くは、
  夢とまことの中間〔なかば〕なり。


 『新体詩抄』では、「平常ノ語ヲ用ヒテ詩歌ヲ作ルコト少ナキヲ嘆ジ」(矢田部良吉序文)と書かれているように、日常のことばを用いて詩を書くことが謳われた。続く『於母影』では雅語が用いられ、一見、後退したように見えるが、その清新さは『新体詩抄』の比ではなかった。だが、日本近代詩が真に始まるのは北村透谷(明治元年(1868年)ー 明治27年)の登場をもってである。透谷こそは、日本近代詩において「詩」とはなにかを自覚的に問うた最初の詩人である。
 透谷曰く、「吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを」。透谷が云う「戦ふべきもの」とは、旧い秩序が推し進める「近代化」であった。透谷の闘いは、文字どおり「必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出」たものであるが、ついに刀折れ、矢尽きる。晩年(自殺する前年)に書かれた「蝶」の連作詩篇をわれわれはいったいどのように読めばいいのだろう。そこには、「楚囚之詩」や「蓬莱曲」を書いた北村透谷はいない。だが、「戦ふ」強度が減衰しているそのピアニッシモにおいてさえ、表出された意識(ことば)は、当時の「新体詩」の意識(ことば)をはるかに超えていることを知るとき、透谷の残した詩文を繰り返し読まなければと思うのである。(文責・岡田)