風景  純銀もざいく  山村暮鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。



 山村暮鳥(1902―1924)の『聖三稜玻璃』から『風は草木にささやいた』を経て『雲』に到る詩の変貌の跡をたどることは難しい。「暮鳥が死した後を以て大詩人の如く持ち上げるのは不真面目も甚しい。暮鳥は単に奇巧をてらつて素人威かしをした以外に何の業績もない駄詩人にすぎぬ」(日夏耿之介)とまでは思わないけれども、暮鳥はどこから来て、どこまで行ったのだろう。暮鳥の詩を一篇一篇丹念に読み込めば、その謎は解明されるのだろうか。この「風景」は、よく知られた詩である。この詩が真にすぐれた詩であるかどうか、その判断は筆者の手には余るが、21世紀のいまでも人の目を惹く詩であろう。後の春山行夫のモダニズム詩などとは似て非なるものであることは、各連に挿入された一行、「かすかなるむぎぶえ」「ひばりのおしゃべり」「やめるはひるのつき」が物語っている。

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 以下は気まぐれなる余滴。
 「今週の詩」の選択にはいつも悩まされる。「今週の詩」としてフロントを張るには、基本的に、一目でその詩の佳さがわかる詩でなくてはならない。
 例えば、某日、次のような詩が目に飛び込んできた。

眠れる人のうへに  竹友藻風

眠れる人のうへに、
静かなる祈祷の雨はふりそそぐ。
わが部屋に、心のうへに、
むせびつつ水はしたたる……

うす青の空のかなたは、
月光の海の底に、
漾〔ただよ〕へる森、なびく樹立〔こだち〕、
静寂の国……

いかなれば外はしづかに晴れ渡り、
いかなればわが部屋にのみ雨は降るらむ。

 一読、微妙にいい詩なのだが、繰り返し読んでいると、どこか弱く、深みに欠けるところがある。果たして、耿之介いわく、「彼(藻風)の詩作に挫折と不精進と不純とがあつた結果、中道にして詩人的生命が全く途絶えたのである」。ことばは厳しいが、これまた微妙に説得的というか、耿之介の炯眼は、詩の、詩人の急所を衝いている。黄眠道人、恐るべし。(文責・岡田)