春の実体  萩原朔太郎
かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶〔がてふ〕のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳〔め〕にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつてゐるのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。

 (註「ごむまり」に傍点あり)



 大正4年(1915年)、室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥の三人によってつくられた人魚詩社から「卓上噴水」が創刊されたが、これは三号で終わる。その後、大正6年に犀星、朔太郎によって「感情」が創刊されるが、そこに暮鳥の名前はなかった(暮鳥は「準同人」として4号から14号まで参加)。犀星、朔太郎、暮鳥、この三者の関係は複雑であったと想像される。上記の「春の実体」は「卓上噴水」第三集(大正4年5月)に発表されて、『月に吠える』に収められたもの。暮鳥の「風景」は同年6月に発表されたものだが、同じ春でも、ふたりはずいぶんと違ったものを見ていたようだ。ところで、先週取り上げた暮鳥の「風景」には一週間を通していつもよりもアクセスが多かった。視覚的であり、ことばもやわらかく、繰り返し味わうことができるからだろうか。(文責・岡田)