海  三富朽葉
面変〔おもがは〕りする海面〔うなづら〕に風は戦慄した。(おお夕焼け!)田舎漢〔いなかもの〕が都会の感情を苛立たしめると同じく、海の荒荒しい挙動はいつしか脆い心を育てた都会人の繊細な感情を突如引き抜かうとする。浜の石塊〔いしころ〕の間に漠とした懸念に圧〔お〕されて胸苦しく佇立する人は、浪の深みより重重しい元始の亡霊の伸び上り、暗い手を延ばして我の上にのしかかるのを見るのである。日没前、犬吠岬の胎内潜りといふ崖穴を抜けて、私は最も安全に突き出た岩の先に寝そべると、周囲の岩に狂奔する蒼ざめた水の遊戯に囲まれる。眩惑は私に黙想を許さず、驚異を強ひる。おお至る所の限られた眩惑――浪のCONVENTION――この退屈のEFFECT――時には生と死の争力を現じる魔の海が湧き立つてゐる。私は現代のFRIGENDE HOLLENDERであつた。私の紅い額は永久に酷薄の海に溺れた。神経の耀きが近代芸術の一創作であるなら、美の顫律を掻き鳴らすべき連想の壊頽――この亡霊の手は原始の動物性と掴み合ふに足る感性である。 
                                                 一九一三・九・一五



 大手拓次の年譜を見ていると、1908年(明治41年)の項に、「(早稲田大学文学部英文科で)七月の学年末試験には不合格科目多く留年。三富義臣(朽葉)、加能作次郎、吉田源次郎(絃二郎)らと同級となる」とある。フランスの象徴主義から影響を受けたふたりが「英文科」で籍を同じくしていたことは興味深いといえなくもないが、「わたしはまことに美の遊行者であつた。」という“密室の詩人”拓次と、「感性は生活の基礎たる宿命である。」という朽葉とのあいだに往来はあったのだろうか。朽葉は、1917年(大正6年)8月、犬吠岬で友人で詩人の今井白楊と遊泳中、溺死する。享年29歳。上記の散文詩は、後の富永太郎のそれなどとくらべるとやや弱い印象を覚えるところもあるが、新しい詩の道を拓いていこうとする意欲が行間に満ち、また、その死を予感させるかのような詩句の運びは記憶に残る。(文責・岡田)