2009年06月08日
佐藤春夫 秋刀魚の歌
あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
以前に書いたように、昭和に入ったら、昭和1年、2年…というように詩集を読んでいきたいと思っているのだが、実際には「昭和詩」=「現代詩」への動きは大正10年頃から始まっていたと云える。それを、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年/1923年)から始めようかと考えているのだけれども、その詩集に跋を書いたのは佐藤春夫である。その春夫の『我が一九二二年』が同年同月(2月)に出版されている。上記の「秋刀魚の歌」はこれに収められている。平戸廉吉により「日本未来派運動第一回宣言」(大正10年)が発表されるなど、新しい詩の動きが生まれつつあるなか、春夫の詩を読むと、それはいかにも古風な抒情詩という体をなしている。後に萩原朔太郎は「佐藤春夫は過去の人である」と云った。それに対して、春夫は「僕は僕のなかに生きてゐる感情が古風に統一された時に歌つてゐる。僕は夢遊病者としてdateの外へ行つて歌つてゐる」と答えたが、この超然性は春夫がかんたんには古い詩人に収まらないことを物語っている。この有名な「秋刀魚の歌」も、古風でセンチメンタルな抒情詩に終わっていないところに、勁いものを感じさせる。いま佐藤春夫の詩文がどれほど読まれているのか知らないが、時折、読み返したくなる。(文責・岡田)
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
以前に書いたように、昭和に入ったら、昭和1年、2年…というように詩集を読んでいきたいと思っているのだが、実際には「昭和詩」=「現代詩」への動きは大正10年頃から始まっていたと云える。それを、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年/1923年)から始めようかと考えているのだけれども、その詩集に跋を書いたのは佐藤春夫である。その春夫の『我が一九二二年』が同年同月(2月)に出版されている。上記の「秋刀魚の歌」はこれに収められている。平戸廉吉により「日本未来派運動第一回宣言」(大正10年)が発表されるなど、新しい詩の動きが生まれつつあるなか、春夫の詩を読むと、それはいかにも古風な抒情詩という体をなしている。後に萩原朔太郎は「佐藤春夫は過去の人である」と云った。それに対して、春夫は「僕は僕のなかに生きてゐる感情が古風に統一された時に歌つてゐる。僕は夢遊病者としてdateの外へ行つて歌つてゐる」と答えたが、この超然性は春夫がかんたんには古い詩人に収まらないことを物語っている。この有名な「秋刀魚の歌」も、古風でセンチメンタルな抒情詩に終わっていないところに、勁いものを感じさせる。いま佐藤春夫の詩文がどれほど読まれているのか知らないが、時折、読み返したくなる。(文責・岡田)
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