陰萎  高橋新吉
 スイトンの鍋へ入れておくれ
 私は自分さへ好けりや好い男なんだから貝杓子でスクウておくれ
 私は自分さへワケスの解らない男なんだから
 今まで醤油色の恋ばかりしてきた
 自分が私なんだらうか
 舌を出して御覧なさい
 糖分が欲しいのでせう

 汁粉を啜ると云ふ事は愛すると云ふ事だらうか
 あなたは今食欲なんです
 自分が箸ではさめるものは何でも私なんだらうか
 何でもあなたのものです

 私が情欲を匂はすとき情欲が自分なんだらうか
 あなたの舌をあたゝめたく思つてゐます

 自分が鼻ではないんだらうか
 あなたをくすぐりはしません
私が老人になつたら西洋手拭で独りで湿布をするだらうか
死っ来い

              (「「性」ダヽ詩三ツ」から)



 大正10年頃から始まる、未来派、ダダイズム、アナキズム…など、詩の新しい動きのなかで興味が惹かれるのは、大正12年(1923年。この年の9月に関東大震災)に出版された高橋新吉(1901-1987)の『ダダイスト新吉の詩』である。「断言はダダイスト」や「皿」の詩などで知られる詩集だが、佐藤春夫の序文は、中原中也の「高橋新吉論」とともに記憶されるべきものである。いわく、「ダダイズムといふものがどんなものであるか僕は知らない。だから高橋がダダイストだかどうだかそんな事も知らない。知る必要もない事だ。ただ僕は知つてゐる。高橋の芸術と生活とはアカデミシヤンの様子ぶつた芸術に対する又、平俗的幸福の生ぬくい生活に対する徹底的の反抗と挑戦とである」と。高橋新吉といえば、ダダの詩人とか禅の詩人とか、あるいは形而上学的詩人とか云われるが、いったい、それらのことばでかんたんにくくれる詩人だろうか。なるほど、新吉の詩にはダダイズムあるいは仏教的なるものが底流しているかもしれないが、それはさらに精密に解析される必要がある。高橋新吉はフクザツな詩人であり、まだ真に解読されていないように思われる。上記の詩は『ダダイスト新吉の詩』に収められたものだが、そのフクザツさの原型、おのれの根拠地を徹底的に掘っていこうとする自我との闘争、その情念が表出されていて、繰り返し読ませる。その強度は21世紀のいまも失われていないだろう。(文責・岡田)