甃のうへ  三好達治

 

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ
廂〔ひさし〕々に
風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ

 三好達治(1900年/明治33年—1964年/昭和39年)の『測量船』(1930年)の読者は多いようだが、筆者には、三好達治の詩はいまひとつピンとこない。そのなかで、上の「甃のうへ」だけは例外で、「ひとりなる/わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ」という憂愁には惹かれる。
 ところで、この詩が、室生犀星の「春の寺」の意識的な本歌取りだと指摘したのは大岡信氏である。

春の寺  室生犀星

うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹〔ぎ〕にすゞめら交〔さか〕り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。

 なるほど、ふたつの詩を読みくらべれば、大岡氏の指摘に納得させられるが、よりはっきりとするのは、ふたりの詩人の資質の違いではないだろうか。「本の手帖」の「三好達治追悼号」(1964年6月号)に収められた様々な文章は、この詩人の「謎」の一端に触れるようなところがあり、実に興味深い。奥野健男によれば、萩原朔太郎全集の編集に際して、犀星と達治は喧嘩別れし、そのまま絶交状態にあったのだが、達治は犀星の通夜に羽織袴で現われたという。「二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けられていた。そしてたまたま隣の席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた」。
 「み寺にさくられうらんたれば/うぐひすしたたり/さくら樹にすゞめら交り」と歌う犀星に憧れつつ、「ひとりなる/わが身の影」と記したのは達治26歳の時であった。(09.09.27 文責・岡田)