(お天気の日の海の沖では)  中原中也

お天気の日の海の沖では
子供が大勢遊んでゐるやうです
お天気の日の海をみてると
女が恋しくなつて来ます

女が恋しくなるともう浜辺に立つてはゐられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰つて来ます
日蔭に帰つて来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

それなのに人は大部分日蔭に暮します
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後〔のち〕に
人は死んでゆくんですけど、
死ぬ時思ひだすことは、多分はお天気の日の海のことです

 

 日本の近現代詩の歩みを振り返るこの「今週の詩」も、1945年8月15日を越えようかというところまできたが、今日は一休みというか、中原中也の詩を書き写したくなった。贅言無用の詩である。この詩を目にしたとき、エマニュエル・レヴィナスのことばがふと思い出された。レヴィナスは、「ひとはどのようにしてものを考え始めるのでしょうか」と尋ねられて、答えている。「たぶん、言葉という形ではおよそ表現しえないような外傷(トラウマ)や手探りから始まるのでしょう。例えば、別離、暴力的な場面、時間の単調さに関する突然の自覚といったものです」。(10.6.21 文責・岡田)