旅人かへらず 西脇順三郎

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

 

 北村太郎の「空白はあったか」が発表されたのは1947年4月であったが、その年の8月に、西脇順三郎の『旅人かへらず』が刊行されている。同時に、『Ambarvalia』
を改作した『あむばるわりあ』も刊行された。さらに付け加えれば、同年11月、「荒地」の西脇順三郎特集号が出ている。
 この『旅人かへらず』については、最近、八木幹夫氏が発表した「『旅人かへらず』の詩篇をめぐって —「昔の土を憶ふ」—」という論考をたいへん興味深く読んだ。それは、『旅人かへらず』の六五「よせから/さがみ川に沿ふ道を下る/重い荷を背負う童子に/道をきいた昔の土を憶ふ」という詩句から、「永遠を覗いてしまった詩人」を解読するものだが、八木氏は、「この詩集(『旅人かへらず』)を揶揄して、しばしば枯淡の東洋回帰とか文人趣味の先祖がえりという人もいるが、それは余りにも当時の西脇さんの心中とかけ離れている。」と云う。後に、西脇は「『旅人かえらず』は戦争のために回顧的に書いている。あれは私の好きな文章のつくり方ではなかった。」と書いたが、それは、「諧謔の人としてはあまりに重いサンチマンの気配がありすぎると考えたためかもしれない。」(八木幹夫)。

 この『旅人かへらず』の一はこれまでも何度となく読み返してきた。この詩句が含意するものは多義的であり、その時々で読み方は異なるが、最近は、冒頭の4行「旅人は待てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人」を、あの「ギリシア的抒情詩」の一篇「雨」の終行「私の舌をぬらした」との関係において読むことが多い。「雨」が「存在」の輝きを表象した詩であるとするならば、『旅人かへらず』では、「舌を濡らす前に/考へよ」と、なぜ「存在」するのかという反省的思索、存在論的思索に踏み入っている。であればこそ、「ああかけすが鳴いてやかましい」という一行/「存在」がもつイロニーが輝く。(10.7.19 文責・岡田)