2010年07月26日
商人らは映画を見ない 夕方彼らは
たべ物と適量の酒と冷たいものをもとめる
事務所で一日の勤めををへたわかい女が
まだ暮れるには間のある街路をあゆむ
青葉した並木や焼跡ののびた雑草の緑に
少しづつ疲れを回復しながら
そしてちらとわが家の夜の茶の間を思ひ浮べる
そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらい々のか
ひとり考へるための椅子はどこにあるのか
誰にも邪魔されずに暗い映画館の椅子
じつと画面に見入つてゐる女学生や受験生たち
お喋りやふざけ合ひから——お互の何といふことはない親和力から
やつとめいめいにひとりにされて
いぢらしい横顔 後姿
からだを資本〔もとで〕の女達もまたはいつてくる
岸の崩れた堀割沿ひの映画館 かれらはそこで
暮れ切るまでの時を消す
暗いなかでもすぐに仲間をみつけて
何かを分け合つては絶えず口に入れる
かれらは画面にひき入れられない 画面の方が
友人のやうにかれらの方に近よつて来る
そしてかれらは平気で声をあげてわらふ
事務所づとめのわかい女は
かすかな頭痛といつしよに映画館を出て来る
もう何も考へることはなくなつてゐる
また別になんにも考へもしなかつたのだ
街には灯がついてゐて
彼女はただぼんやりと気だるく満足した心持で
ジープのつづけさまに走りすぎるのをしばらく待つてから
車道を横ぎる
北村太郎が「空白はあったか」と問い、西脇順三郎が『旅人かへらず』を出版した1947年の11月に、伊東静雄の『反響』が刊行されている。伊東静雄! 彼こそは、これからも繰り返し語られるべき詩人である。1935年、『わがひとに与ふる哀歌』。1940年、『夏花』。1941年、『春のいそぎ』。大岡信は、『夏花』以後の詩作について、「だが、それとともに、彼の作品が、どこか狂的な熱度さえ帯びていた初期の破壊的な詩の高みから、徐々に下降していったことも、明らかな事実であろう。」「それは伊東静雄自身にとって、やはり一つの挫折として自覚されていたのではないだろうか。」として、静雄の桑原武夫宛ての書簡を引いている。
「私は最近の自分の作を、初期のものの『解説』といふ風に考へてをります。しかし昔に帰ることは到底無理なやうに思はれます。あの頃のやうな、意識の暗黒部との必死な格闘は、すっかり炎を消して平明な思索に移らうとしてゐるやうに自分では考へてをります。」
静雄の『反響』には、「訪問者」「詩作の後」など捨てがたい詩が収められているが、上記の「都会の慰め」はとりわけ強い印象を残す。この詩は、1946年に書かれた。つまり、敗戦後まもない「都会」の「夕方」を描いた詩だが、詩を読んでいると、詩人・伊東静雄の「炎」はまだ「消えて」はいないことを知らされるのである。この詩行の運びは繰り返し読んで厭きない。
ところで、最近は、この詩の横に、チェーザレ・パヴェーゼの「苦しみ」という詩を置いて読むことが多い。その三十行の詩の冒頭三行を書き写してみよう。「街から街をあたしは彷徨うだろう、疲れ果てて死なぬかぎりは/女独りで生きるすべを知るだろう、通り過ぎる顔の瞳を/ひとつひとつ覗きこみ、いまのあたしに留まるだろう」(河島英昭訳)(10.7.26 文責・岡田)
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