2010年08月23日
蛾 1 金子光晴
月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。
寝鳥ははこばれる。うとうとしながら森とともに、どこをさまようてゐるのかもしらず。
空は、塩田のやうだ。地はあんまり暗い。あんまりしづかだ。
ものがなしい、だが、めづらしげなこの世界の狭間、人間のたどつたはじめての岸辺。
コロンブス一行も、めぐりあはなかつた、うなされた窓、窓。
ねぐさいつゆくさの床に、夜もすがら枝をつたうておちる夜霧のしづくをきいた。
帆柱はおしすヽむ。あらたな悲しみの封緘〔ふうかん〕を截〔き〕る、ものうい、いたいたしげなあかつきさして、むなしくも。
2
たらふくな生血を飲んだ土の、吐く息のなまぐささ。
あけにまみれた蝮〔まむし〕と
ほたる袋。
輪廻のやうに這ひまはるもの、思想よ、そのふるい根はふとくはびこつて、
はてなく地の闇をまさぐつた。始にも終にもであふことなしに、
死すらもとゞくによしのない、ものとそのこだまのつゞく世のかぎり、
沼の底泥ふかく沈んだ金、銀の魚くづどもにふれるやうに、
そのはてが苦難につながる快楽に、僕らは膚ふれた。
なんといきいきとのがれてゆくものどもか!
ふかい闇、霧をへだてて、みじろぎながら、ぢつとうかゞつてゐるものら。
希望を装ひながらまだこない不しあはせたち、むらがる観衆の顔、顔。
腰の折れた扇子のやうにばたばたやりながら夜の蛾は、月のない月のあかりにうかれでた。
おもい、しめつぽい家紋のついたひろ袖を、そらごとめいてうちひろげ、
溺れまいとでもするやうに、からくもとび舞うた。
いきることのあぶなつかしさ。夢をもちはこぶことの無謀さよ。
3
蛾よ。
なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛〔ふんたい〕、時のおもたさを背にのせてあへぎ、
しばらくいつては憩ふ、かひないつばさうち。
やぶれたはなびらのふしまろび。とりすがる指の力なさ。末路王、肥えた閹者〔えんじや〕のなれのはて。すぎ去つた虚妄の夕照りにしかすぎぬゆくての壮麗に欺かれ、さそひ出されたもののむなしい遊行。蛾よ。
あゝ、どこにかへつてゆくところがある?
草や木は、鬱々とひろがり、ふかいりしたものどもは、たがひにまさぐりあふ。
こゝろを越えて憂愁は、みなぎりわたる。だが、月はない。
人がおほかたねくたれてゐるひまに、どつかでふり捨てるつもりで、全重量をせなかにのせたまゝ大地は、
ぬすびとのやうに疾走してゐる。
そして、追放者、嫖客〔へうかく〕など、夢なかばに目ざめたものばかりが待つてゐる。
まだほど遠いしののめを。みしらぬくにのあたらしい刑罰を。うつくしい難破を。
昭和二十年七月 山中湖畔にて
——新妻には死体を引きずることができない/袋みたいには——。」(河島英昭訳)という詩句を思い出させるほどに(いまチェーザレ・パヴェーゼの詩を断続的に読んでいるということもあるが)、含意に満ち満ちていて、以後、一行一行、この詩を読み解いていくことに誘惑される。とりわけ、ぞくっとさせられるのは、「ふかい闇、霧をへだてて、みじろぎながら、ぢつとうかゞつてゐるものら。/希望を装ひながらまだこない不しあはせたち、むらがる観衆の顔、顔。」という二行の後に、「腰の折れた扇子のやうにばたばたやりながら夜の蛾は、月のない月のあかりにうかれでた。」と、蛾が現われるところだ。詩人は、湖畔を覆う霧と対峙するなかで、「コロンブス一行も、めぐりあはなかつた」「人間のたどつたはじめての岸辺」を「たど」りはじめるのだが、そのとき、詩人は、ただ詩を書くことと真正面から向かい合っていたのだろう。「この詩集は、僕の皮膚の一番感じ易い、弱い場所で、例へばわきのしたとか足のうらとか口中の擬皮とかいふところに相当する。だがこの柔さ弱さ、たあいなさがつまり僕なのだ」と、詩人は詩集の「あとがき」で云っているが、これをただ文字どおりに受け止めるだけでは、この詩集を読んだことにはならないだろう。「蛾」8篇は、一行一行、熟読玩味するべき詩である。そして、『こがね虫』をもう一度読み返さなくてはと思うのだ。(10.8.23 文責・岡田)
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