ニッパ椰子の唄  金子光晴

 赤錆〔あかさび〕の水のおもてに
ニッパ椰子が茂る。

満々と漲〔みなぎ〕る水は、
天とおなじくらゐ
高い。
むしむしした白雲の映る
ゆるい水襞〔みなひだ〕から出て、
ニッパはかるく
爪弾〔つまはじ〕きしあふ。

こころのまつすぐな
ニッパよ。
漂泊の友よ。
なみだにぬれた
新鮮な睫毛〔まつげ〕よ。

なげやりなニッパを、櫂〔かい〕が
おしわけてすすむ。
まる木舟の舷〔ふなばた〕と並んで
川蛇がおよぐ。

バンジャル・マシンをのぼり
バトパハ河をくだる
両岸のニッパ椰子よ。
ながれる水のうへの
静思よ。
はてない伴侶よ。

文明のない、さびしい明るさが
文明の一漂流物、私をながめる。
胡椒や、ゴムの
プランター達をながめたやうに。

「かへらないことが
最善だよ。」
それは放浪の哲学。

ニッパは
女たちよりやさしい。
たばこをふかしてねそべつてる
どんな女たちよりも。

ニッパはみな疲れたやうな姿態で、
だが、精悍なほど
いきいきとして。
聡明で
すこしの淫らさもなくて、
すさまじいほど清らかな
青い襟足をそろへて。

 

 1948年から49年にかけて、金子光晴は、『落下傘』『蛾』『女たちへのエレジー』『鬼の児の歌』と、次々に(?)詩集を出している。この時期に、つまり、48年には『マチネ・ポエティック詩集』が、49年には三好豊一郎の『囚人』が出版されていることは、「戦後詩史」という時間に奥行きを与える興味深いことであると思われるが、いまは光晴の詩について考えたい。
 金子光晴のこれらの詩集に収められた詩篇は、日本軍国主義が太平洋戦争が満州事変から日中戦争、太平洋戦争へとなだれこむ時代に書かれたものだが、ここにもうひとつ、1928年から32年にわたる光晴の「放浪」体験を踏まえて、それらの詩を読んでいくことが求められているように思われる。
 「一すじな向学心に燃えた、規律的な、清浄なこんな生活が、なによりも僕にぴったりしたものと、ためらいなく考えるようになったじぶんを、過去の懶惰な、シニックなじぶんと比べてみて、信じられない位だったが、それはみな、ルパージュの友情のたまものであった。まなぶことのたのしさは、この時期をすごして、永久に僕のもとへかえってこなかった。」とは、1920年のベルギー・ブルッセルの遊学時を回顧することばであるが、1928年から始まる「マレー蘭印」放浪もまた、なにかを「まなぶ」旅ではなかったか。この放浪の理由のひとつに、金子光晴、森三千代、土方定一という三角関係の解消があったことはよく知られていることであるが、『マレー蘭印紀行』に収められた文章はいずれも味わい深い。例えば、「珊瑚島」の冒頭二行。

 うつくしいなどという言葉では云足りない。悲しいといえばよいのだろうか。
 あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界にみえる。

松本亮氏によれば、光晴は、この「マレー蘭印」放浪のあいだ、現地語の表記を絶えずノートしていたという。松本氏は、光晴が死んだ1975年の暮れにクアラルンプルからシンガポールへと南下する途中でバトゥパハに一泊された。「ニッパヤシが水に映るでしょ。水に映ると、それこそ金子さんの描写じゃないですけど、女の子の長いまつげが鮮やかにサーッと映っているような、そういうヤシなんですよ、ニッパヤシというのは。」という松本さんの話を聞くと、光晴が歩いたバトゥパハの街を訪ねてみたくなる。(10.8.30 文責・岡田)