詩情と空間<13>  浅野言朗読

 

40:リニューアルに合わせて

 今回は、連載のリニューアルに合わせて、視点を継続・整理してみたい。

 ミッドナイト・プレスHPのリニューアルに際しては、東日本大震災3.11及びその後をどう考えるか、が一つの視点になっている。3.11について感じるのは、人が、いかにそれぞれの場所にこだわって生きているか、ということである。例えば、津波の危険性がある場所であっても、人はそこに数百年という長さで住み続ける。福島の問題であっても、当然、その居住領域を放棄することは前提とされず、故郷への帰還が復興の目標の一つとされる、ということがある。

 ところが、私のように団地に生まれて団地に育った人間にとっては、身体の奥底から共感出来るとは言い切れないところがあるようにも思われた。団地は、垂直の壁に住んでいるようなもので、大地に根付いて生きている実感はない。ベランダから見る光景は、遠い場所の、何百枚目何千枚目かの複製であるような、希薄な印象がある。ある場所が住めなくなったとして、どこか別の場所に住む、ということに、団地族の抵抗は少ないかも知れない。そもそも、郊外に住むサラリーマン家庭の子供に生まれると、人生で住む場所は何回も変わり、それぞれの局面で住んでいた家も、縁もゆかりもない他人の手に渡っていたり、あるいは壊されたりもしている。生まれ育った東京や横浜という<故郷>への想いは、持つことさえ許されていないと感じられ、<故郷>という言葉を投げかけるのには気恥ずかしさすら芽生えてしまう。<故郷>は自分のものではなく、他の無数の見知らぬ人と共有のものであり、他人の領域の片隅に間借しているような心苦しさを絶えず感じている。既に数世代前から、そのようにして、どこか仮居の気安さと居心地の悪さを案配しながら、生きている。故郷は実感するというより妄想するものである。

 だから、正直な心情としては、故郷を喪失したことの怒りが、全面的には追体験できない。そのようなことを起点に考えながら、<故郷>という特別な場所が人間にとって大きく変質しつつあるのではないか、ということも踏まえて、『詩情と空間』では、継続して場所と人間の関わりの考察がテーマになる。

 

 

41:どこまでも平らな、ありふれた光景について

 電車に乗っていると、日本の一般的な光景として、都心から郊外へ、さらにその外へと差し掛かるにつれて、平地という平地は、田畑として開発されているように感じられる。あるいは、住宅地であったとしても、かつては田畑であった地割りを転用しているのではないか、という街並のスケール感を感じることがある。郊外を抜けて、山野に入って行くまで、その山裾は田畑で覆われている。風景は、几帳面に平らに均され、一定の大きさの区画に切り分けられている。

 そもそも江戸時代までは、米が貨幣の代わりであったから、田はお金を生産するための工場としての大地である。それぞれの<藩=国>の経済力は何万石というように石高で表現されるが、それは、一般的には、例えば次の数式で表されるだろう。

 S(田の面積) × P(田単位面積辺りの米の生産高)=SP

ということになる。ここで、単位面積辺りの米の生産高は田によって違うから、個々の田の実情に合わせた実績を積算していくことになるだろう。それぞれの<藩=国>は、お金を絶えず生産する工場として土地を見なしながら、田の面積をなるべく広げつつ新田を開発して国土を加工し尽くしていく。これは、近代的な現象ではない。例えば、江戸時代の各大名の土木事業の動機付けだっただろう。

 都市から郊外に抜けて行く電車に乗って、その平地の隅々までが<田>として整えられている痕跡を見るにつけ、もともとどういう景観(森林、原野、沼地…)であったか類推することも難しい。環境が近代化によって改変されていた、というよりも、その遥か昔から、人間はその居住に伴って手の届く範囲にある環境を加工し尽くしていた、と言えそうである。

 それらを見ていて思うのは、人間の感性(=詩情)と環境(=空間)との関わりは、功利的なものや合理的なものであるかもしれないが、それ以前に、偏執的で憑かれたようなものである、ということである。『けものたちは故郷をめざす』というように、人間の身体性は、<巣>を追い求める、あるいは、それを新たに打ち立てるためにその加工を繰り返し模倣する。その身体的な衝動は、毎年、同じような場所で繰り返されるツバメの巣作りや蝶の幼虫が樹の葉を食い尽くす様子を見ていても、同根であると感じさせる。

勿論、<土地>に対するこだわりは、日本のように農業国に特徴的な現象ということではなく、世界中の紛争を見ていると、その多くが<土地>と<国境>を巡る争いであることが分かる。人間が生存する、人間が生きて物語を紡いでいく、ということは、<場所>との関わりを除いてはありえない、ということになる。であるから、『詩情と空間』は継続して書かれて行く。

水平の大地から、垂直の壁のような団地へと居住の形態が変わったとしても、人間と場所が、偏執的に取り結ばれていることに変わりはないだろう。そのような局面で、大地のような豊かな場所への拘泥は、どのように内向化あるいは複雑化しているだろうか。引き続き考察していきたい。

 

 

 

 

 

 

浅野言朗(あさのことあき) 1972年生まれ。詩人、建築家。詩集『26=64/窓の分割』(ミッドナイト・プレス)、

森の階調」( 浅野言朗建築設計事務所 、2013年日本建築学会作品選集新人賞)

帆/立方体/傾いた茶室」(2015年神戸ビエンナーレ・奨励賞)。

 

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