詩情と空間<15>
45:2020年東京オリンピックを巡って(1)
本来、時事問題を取り上げる論考ではないのだが、ここでは、2020年に開かれる東京オリンピックについて触れておきたい。少し時間が経過して報道は収まっているが、新国立競技場やエンブレム等、デザインとそれを導き出す時代の空気について考えたい事項が揃っている。
新国立競技場を巡って旧案を廃棄し、新たに案を選出し直したその経緯は報道の通りだが、オリンピック誘致段階で決定したザハ・ハディドの案が当初予算に比べて高額であることを主な理由に廃棄されて、工期と予算が重視され、設計と施工が一体化されたコンペティションの結果、隈研吾と伊東豊雄の2人の建築家を中心とするグループの案がそれぞれ提出されて、前者が採用された。
この経緯は盛んに論じられているのであるが、ここで考えてみたいのは、主に、二つのことである。
一つ目は、当初案の見直しについてである。ザハ・ハディド案見直しの発端となり、世論に対する発信源の一つになったのは、建築家・槇文彦による論考である。槇文彦は、主に神宮外苑の歴史を踏まえた景観的な視点から、大きすぎる計画施設の規模の見直しを主張したのであるが、現実には、世論がこの論考にそのまま賛同したというよりも、施設の建設コストの余りの高額が内閣の支持率に直結し始めたので、最終的には政府主導によって見直しを決めた、というのが事実だろう。
もう一つは、2回目のコンペティションにおける、敗者となりつつもデザインとしての評価は圧倒的に高かった伊東豊雄の案である。これは、エンブレムにおける佐野研二郎案の撤廃の問題と合わせて考えてみたい。
第一の問題であるが、槇文彦の論考は、2020年夏期オリンピックが東京で開催されることが決定する前に、日本建築家協会(JIA)の会報誌2013年8月号に「特別寄稿 新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」として、集約的に発表された(これは、日本建築家協会のHPで読むことが可能である)。氏の代表的な著作である『見えがくれする都市』を学生時代に熱心に読み、江戸から東京へと続く都市空間の濃密な豊かさに目を見開かれた者としては、この論旨は大変説得力があり、かつ複数の論点を含む豊かな論考であると感じられるが、しかしながら、都市に対する景観問題の、一つの主張が強固であればあるほど、反対の論陣の側をも活性化させる可能性がある、ということも感じさせるものであった。
現実的に、明治以降整備された神宮内苑と外苑の歴史的背景から、あの場所にふさわしい施設の規模を論じることの説得性は、どれほどの射程を持ちうるだろうか。
航空写真を見ていると、現在、東京の都心に残っている、まとまった自然環境の代表的なものとして、以下のようなものが考えられる。皇居、赤坂御用地、新宿御苑、明治神宮、国立科学博物館附属自然教育園、浜離宮恩賜庭園、上野恩賜公園、等。江戸時代の屋敷跡に由来する比較的小規模な庭園や幾つかの墓地を除いたこれらは、いずれもが、その歴史的経緯や現在の管理において、皇室や宮内庁が関わっている。これらの環境が、東京の近代化の中にあっても、今日に至るまで開発されることなく守られたのは、皇室が関わっていたからであろうことは、容易に想像できる。特に日本における景観の問題では、ヨーロッパのように街の中の建築物のかたちを整えることを意味する以上に、街の背後に広がる<森=杜>を守ることを意味することも多い。日本の街や村は、規模に関わらず、国土の地形的な特性からいずれも山が近く、背後に広がる山の森を神域と見なし、それを背負った街の末端の位置に神社を建てるという伝統的な空間構造を持っている。そのため、日本の近代化における神社組織の整備の過程を考えると、景観の問題は天皇制とどこかで関わらざるをえない。景観問題は、都市的な美意識の問題というよりは、最終的には論拠の探りようのない、要は信じるか信じないか、という問題に落ち込んでしまうことになり、市民一人一人に潜在する、習慣化され日常化された逃れ難い穏やかな宗教的感覚へと連結されている。
日本における景観の問題は、天皇制のタブーに微妙に絡められながら、守るべきものとされて来たように感じられる。結局のところ、景観をめぐって新国立競技場を考えた場合、論理的には結論は導き出せなかったのだろうと思われる。神域としての森の聖なる力を、犯してはいけないのではないか?ということであり、これは、信仰の強要に近い。だから、景観問題は、保守と革新という結論のない構図に陥ることになる。
エッフェル塔は多くの反対意見がある中でも建設が強行されて、結果的にはパリのかけがえのない景観の一つとなった。新国立競技場の当初案に、そういった可能性が全くなかったとは言えない。しかしながら、最後は経済的な合理性によって事は決した、と考えられる。
46:2020年東京オリンピックを巡って(2)
さて、第二の問題であるが、まず、佐野研二郎のエンブレム案についてである。これが廃棄された理由の一つはベルギーの劇場ロゴとの類似性の指摘であったが、もう一つは、2013年に銀座で開かれたヤン・チヒョルトというドイツのデザイナーの展覧会のポスターデザインに似ている、ということであった。ポスター自体はヤン・チヒョルトのデザインではないものの、1930年代の彼の書体を踏まえてデザインされたものであること、このドイツのデザイナーは、バウハウスの流れを汲むデザイン思想の持ち主であること、が知られている。この、2020年の東京オリンピックのためのエンブレムとして一旦決定した佐野氏のデザインは、幾何学的な要素の配列から成っており、例えば、桜をモチーフとした招致用のエンブレムと比べれば、明らかに堅苦しく、古風でもあり、唐突な印象を与えるものですらあった。
ヤン・チヒョルトは、1933年にドイツから亡命しているが、その頃のドイツについて、簡単に歴史的な経緯を整理すると、バウハウスが設立されたのが1919年。1933年には、ヒトラーが権力を掌握するとともに、バウハウスが閉鎖されている。以後、1935年にニュルンベルク法がつくられ、1936年にベルリンオリンピックが開催され、1939年にドイツはポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発している。
一方、新国立競技場の2回目のコンペティションにおける伊東豊雄案について、<風>をキーワードとした軽快さを作風とし、権威的な建物に対抗する建築を造り続けて来た氏の案は、競技場の周囲に巨木の列柱を立てるという、幾分クラシックな装いを漂わせた力強い案であった。(この案の詳細は、日本スポーツ振興センターのホームページにて公開されている技術提案書によって明らかである。)提案書によれば、「縄文的な力強い祝祭の場」「祝祭空間を象徴する木柱」ということであり、この列柱は、この場所に、いにしえの神がかった力を降臨させるための、祝祭的な仕掛け、ということになるだろう。
ヒトラーによって主導された、1936年のベルリンオリンピックのメインスタジアムは、同オリンピックのために建設され、今日まで改修を重ねながら使われている。特徴的なのは、新古典主義様式による、外周部に立ち並ぶ列柱であり、同オリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタールの映画『Olympia』にも描かれているように、古代の神々の力と意志を降臨させるための舞台装置とも言えるものとなっている。この、壮大に立ち並ぶ列柱というモチーフは、伊東氏のスタジアム案と、大まかな外観の類似性とともに、その採用意図も含めて、どこかで通じているように感じられる。
ベルリンオリンピック時のベルリン・オリンピアシュタディオン
ドイツチームの入場シーン
デザインの気質的なものを探って行くと、今回の東京オリンピックの背後には、ヒトラーによるナチズムがバウハウス等モダニズムの合理的なデザイン潮流とせめぎ合い、それを駆逐し、ベルリンオリンピックを経由し破滅へと流れ込んで行く1930年代のドイツ第三帝国の亡霊と幾分類似したものの蠢きを感じさせるものがある(ヒトラーによって閉鎖に追い込まれたバウハウスであるが、近代の工業技術等に基づいた合理主義的なデザインの殿堂となったバウハウスと、ナチズムとは、史実としては対立するものとされ、結果的に起きた事象としては相反しているが、その考え方、とりわけ<鉄への信仰>とでもいうべき、技術に対する信仰においては共通するものも多いと考えられる。バウハウスとナチズムという二つの流れが、1920~30年代のドイツという同じ時期の同じ場所に生成したのは必然であり、それぞれの向かうベクトルはある段階までは併走していたのではないか、と感じている。それについては、改めて考察してみたい。ナチズムには、単にヒューマニズムの崩壊というよりは、合理的なテクノロジーの暴走という側面があるようにも感じられ、技術への過信あるいは信仰の結果、それが制御できなくなった場合に何が起きるか、という点で、今日的な問題も含まれている、と考えられる。)。東京オリンピックを誘致しようとした当初の都知事や開催が決定した時点での首相の顔ぶれを思えば、この符合は偶然ではなく、さらにはオリンピックという制度自体が、民族的な祭典となるための多くの要諦を持っているとも言える。
しかしながら、結果としては、これらのデザインは採用されなかった。勿論、採用された案が、これらに勝っていた、ということにはならない。むしろ、採用されなかった伊東案と佐野案の方が、結果的に採用されたものよりも、はるかに優れていたと思われる。デザインとは、その背後の時流に巧妙に掠めとられながら、歴史を振り返った時に、作者の意図を越えてその時流と迎合していたことが示されたり、さらには、それに加担していたことさえ示されたりすることがあるものだろう。それは、日本の戦時における言語的な文脈においても、ある程度当てはまることである。
20世紀におけるオリンピックは、発展途上の国々の都市が、国際都市に相応しいインフラを整備し、経済を成長させるための契機として使われた面がある。1964年の東京オリンピックもまた、完全には敗戦から立ち直っていなかった日本が、再び経済力を持った大国として国際社会に復帰するための一つの段階として、時宜を得たものであった。
しかしながら、よく言われるように、1964年に世界各国の若いアスリートたちが開会式のために入場行進をした国立競技場の会場は、1943年の第二次世界大戦下、学徒出陣の壮行会において、戦地に赴く若者が行進をした場所と、全く同じであった。世界各国から招いた人たちに対してどこかで国威を示しながらスポーツの祭典を行うことと、世界各国へと兵を送り出して行くこととは、表裏一体な性質があると言えるだろう。当時の写真を見比べていると、1943年秋に出陣し異国へと散って行った若者たちの帰還の姿こそが、世界中から若者を招いた1964年秋の祝典ではなかったか、という倒錯した幻想にすら捉えられて来る。その間の21年という時間は、式年遷宮のスパンと奇妙にも一致しており、一つの世代が入れ替わるとされている時間がトレースされている。
そもそも、毎回、会場を移しながら、世界を漂流し、その度に膨大な支出のもと、施設整備を行って行く、という、現状のオリンピックのあり方は見直されるべきものである。誘致合戦を繰り広げるのではなく、既に十分な設備が整った数カ所を、転戦するだけでいいのかも知れない。
出陣学徒壮行会(1943年10月21日)
東京オリンピック開会式(1964年10月10日)
明治19年の東京の地図
現在の航空写真
浅野言朗(あさのことあき) 1972年生まれ。詩人、建築家。詩集『26=64/窓の分割』(ミッドナイト・プレス)、
「森の階調」( 浅野言朗建築設計事務所 、2013年日本建築学会作品選集新人賞)。
「帆/立方体/傾いた茶室」(2015年神戸ビエンナーレ・奨励賞)。
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