詩情と空間<17>
50:(間奏)
話は脱線するが、映画『シン・ゴジラ』が評判である。私も幾つかの偶然と衝動により公開早々見ることになったこの映画は、3.11とりわけ原発事故に対する目配せがあり、これに先立って、アメリカのハリウッドで製作された2014年の『Godzilla』も、対照的な視点から、同じように3.11とりわけ原発事故を下敷きにしている。そもそも『ゴジラ』が、第五福竜丸事件の後、原子力の脅威の形象化という成立経緯を持っていることからしても、この日米二つのゴジラが、3.11とりわけ福島原発事故に触発されて創られるにいたったことの必然性は想像しやすい。第五福竜丸事件の前に描かれ、原子力が人類の未来を切り開く希望溢れる技術として捉えられている『鉄腕アトム』との対照性など、既に指摘されていること、巷間で言われていることも多いので、十分に準備をした上でいずれ考えてみたい。
51:閉空間とそれからの脱出
今回は、前回からの継続の主題もあり、アウシュヴィッツ、とりわけ、強制収容所から生還した心理学者であるV・E・フランクルが強制収容所での体験を戦後振り返ってまとめた『夜と霧』について考えてみたい。
ここで合わせて参考にしたいのは、サン=テグジュペリの『人間の土地』と安部公房の『砂の女』、とりわけ前者である。これらは、閉ざされた空間と、それを(物理的・精神的に)どう乗り越えるか、という意志の図式化と捉えることができる。(彼らは、それぞれ心理学者、飛行士、医師という顔をも持っていた。それらは、いずれも閉塞と離脱に関わる職能であるということができる。)一群の作品の骨格(状況と主人公の意識の関わり)は、大まかに、
(1)閉ざされた空間の中に封じ込められた、という絶望的な状況が最初にある。
(2)その中で絶望した意識が、認識の中で空間構造を反転させることによって、精神的な自由を獲得する。
という構造において、共通している。
(1)の絶望的な幽閉状況は、それぞれ具体的に以下のようになっている。
(a)『夜と霧』:第二次世界大戦下の、絶滅強制収容所
(b)『人間の土地』:飛行機の不時着した、砂漠の真ん中
(c)『砂の女』:蟻地獄のような、崩れて行く砂浜に埋もれつつある街(砂の底)
(2)の閉空間を意識の中で反転させる心理については、それぞれの作品の核となっているので、ここでは要約的に触れることはしない。
これらは、空間認識としては、世界の片隅であった閉じられた空間に、(主体の意識の持ち様によって)世界の中心を僭称させること、とも言える。三つを比較すると、大まかな図式的相同性もあるが、当然差異もあるだろう。差異の方が決定的に重要であるとも思われるので、順を追って見て行くことになる。(この空間的な反転の図式を、幾分俗な教訓のようにまとめると、人間は、どんなに困難な状況であっても、意識の持ちようによって、どうとでも乗り越えられる、ということになる。しかし、空間性は、そもそも、教訓ではなく、処世術でもない。同じような図式でありつつ、『夜と霧』では心理的なリアリズム、『人間の土地』ではヒューマニズム、『砂の女』ではアイロニーの色彩が強くなっている。)
簡単に、作者の生きた年代とこれらが書かれた時期について見ておく。生年/特異な空間体験/執筆時期/(死去した年)の順でまとめる。いずれも、第二次世界大戦あるいはそれへと流れて行く時代状況に絡めて、これらの強固で特異な空間認識が得られていると考えられる。
(a)V・E・フランクル:1905年生まれ/第二次世界大戦中強制収容所に収容/戦後まもなく『夜と霧』執筆/1997年没
(b)サン=テグジュペリ:1900年生まれ/1935年リビア砂漠に不時着/1939年『人間の土地』/1944年出撃中に消息を絶つ
(c)安部公房:1924年生まれ/戦前から戦後にかけて断続的に満州で生活/1962年『砂の女』/1993年没
前提となる閉ざされた空間は、一見同じ範疇に括られるものの、これらの作者が抱いているそれぞれの空間性は、各々の身体的な体験に裏付 けられていて、実際のところ、異なった詩的イメージの拡張性を持っていると感じられる。(例えば、加藤宏幸氏は、『サン・テグジュペリと砂漠』というタイトルの小論で、作者の中に頻出する砂漠という空間性について、考察している。)
※ ※ ※
『詩情と空間』の考察の中で、閉じられた空間への幽閉と、その意識(=詩情の発露)における脱出/反転は、最も重要な主題の一つである。この系譜に連なる、あるいは、その変奏とも読み取れるものには、例えば、やはり第二次世界大戦中の空間体験の形象化とも言えるゴールディングの『蝿の王』に見られるような、無人島への漂着物語の系譜など、その他にもいろいろなものがあるのだが、それらにも適宜触れて行くことにしたい。
とりわけ現時点で丁寧に見て行きたいと思っているのは、『夜と霧』と『人間の土地』との対比的な構造である。
世界観(空間認識)としては、世界に境界はなく、どんな場所にでも自由に往来できる、という考え方が一方であり、世界は、境界付けられ安全(または不自由)な領分として隔離された無数の閉空間(セル)に分割され尽くされている、という考え方がもう一方である。
この対比で考えると、<空>を自由に往来したサン=テグジュペリの持つ(=体感している)空間性は明らかに前者であり、にも関わらず、その機体が砂漠の中に墜落した場合、往来を阻む砂漠は一見、閉ざされた空間のように見える。ところが、<砂漠>は単に人の往来を阻む領域ではなく、茫洋とした広がりをもった<空>の変異体として、そこには別の空間性が現出している、と言えそうである。それは、<空>→<砂漠>という転位の中に、墜落したのが飛行機ではなくて、<空>そのものが墜落したのではないか、と思わせる何か、であるといえる。サン=テグジュペリの飛行とは、<空>そのものを崩落させてしまうほど、一面で不遜な行為、広大な<空>に身を委ねつつ、高速な移動そのものによって、それを切り裂く原点の生成を試みているのではないか、と思わせるものでもあるだろう。
そうすると、<強制収容所>と<砂漠>は、その始点においては、同じように人間に働きかけて来る束縛的で攻撃的な空間性を有しているように見えつつ、全く反対方向へとその空間性を羽搏かせようとしている、と感じられるだろう。
52:『夜と霧』(1)
という予測を踏まえた上で、まずは、フランクルの『夜と霧』から考察していきたい。ここでも、余白について、言及されていると感じられる。強制収容所であっても、作者の意識は、強制されていない時間的・空間的な余白を見つけ出して、それを自分の意志によって編んで行こうとする、精神的なベクトルがある。(どんなに救いようのない状況であっても、その絶望的な拘束性は幾つかの因子から構成されている可能性があり、拘束性の綻びを見付けて、その因子の構成をゆっくりと解きほぐして組み替えることが出来るかも知れず、そうすることによって、状況を改善させることが出来るかもしれない、というように。『夜と霧』はその過程の記録と言える。)
みすず書房から出されているヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』(新版、池田香代子訳、2002)から、長くはなるが(換言・要約することのできない言葉が並んでいるので)、そのような箇所を幾つか具体的に引用してみたい。まず、「第二段階 収容所生活」の中の「精神の自由」の項からであるが、
・「(前略)人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」
・「収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。」
・「つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。」
ブーヘンヴァルト強制収容所(1945)
このことの体験的構造を、その後の部分(「第二段階 収容所生活」の中の「暫定的存在を分析する」の項)でさらに詳しく述べている。話の運びが追えるように、やや長くなるが本文から断続的に抜粋しながら見てみたい。
・「元被収容者についての報告や体験記はどれも、被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからないことだった、としている。(中略)ある著名な心理学者がなにかの折りにこのことにふれて、強制収容所におけるありようを「暫定的存在」と呼んだが、この定義を補いたいと思う。つまり、強制収容所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義される、と。」
・「(前略)収容所に一歩足を踏み入れると、心内風景は一変する。不確定性が終わり、終わりが不確定になる。(中略)ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。(後略)」
・「(前略)わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。」
・「人間として破綻した人の強制収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。未来の目的によりどころをもたないからだ。(中略)これには、おぞましい現在に高をくくれるという効果がある。しかし、現在、つまり現前する現実に高をくくることには、危険な一面がある。(後略)」
・「(前略)被収容者として過ごす時間がもたらす苛酷さのもとで高いレベルへと飛躍する(中略)可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人々だった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。(後略)」
・「「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。(後略)」
次回は、これらを踏まえて、『夜と霧』の考察の続きから始める。
浅野言朗(あさのことあき) 1972年生まれ。詩人、建築家。詩集『26=64/窓の分割』(ミッドナイト・プレス)、
「森の階調」( 浅野言朗建築設計事務所 、2013年日本建築学会作品選集新人賞)。
「帆/立方体/傾いた茶室」(2015年神戸ビエンナーレ・奨励賞)。
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