Poetry Review15

「純粋」と「悪夢」

中村剛彦

 

 

去年の年末の夜、横浜の酒場で会った20代半ばの女性の詩人と話していたら、「わたし『血と薔薇』復刻版をネットで手に入れました」と言うので、「ぜひ貸して欲しい」と頼んだところ、「絵や写真は面白かったけど文章が難しくて読めないから、いつ返してくれてもいいですよ」と貸してくれた。わたしにとってこの「血と薔薇」は、中学生時分に性的妄想と「書くこと」への衝動に襲われていた際に、どこかで聞き知って手に入れたかったが、どうしても手に入れられなかった伝説的雑誌であった。それから30年経ってふいに念願叶い、まるで自らの詩的原点を見入る思いで感慨に耽けりながら読んでいる。同時に20代半ばの平成生まれの若い詩人が、この「血と薔薇」にいま興味を持っていることが、ひとつ面白い現象だと感じ、今回これを取り上げながら、詩について考えてみたい。

 

 

 

 

この「血と薔薇」については、すでに多く語られてきたところで、詳らかにわたしがここで語る必要はないので、ここでは最低限の情報のみ書く。創刊は1968年、澁澤龍彦編集、堀内誠一デザイン、テーマ「エロティシズム」。3号で終刊。執筆・作品掲載者は、三島由紀夫、稲垣足穂、埴谷雄高、吉行淳之介、飯島耕一、種村季弘、塚本邦雄、高橋睦郎、加藤郁乎、吉岡実、鮎川信夫、篠山紀信、細江英公、石元泰博、東松照明、萩原朔美、土方巽、唐十郎等々。まさに“あの時代”を彩る綺羅星のごとき面々である。同時に詩、小説、短歌、俳句、写真、美術、舞踊等々のあらゆる芸術のジャンルと思想的左右を「エロティシズム」ひとつで横串にしたコンセプトは、澁澤龍彦の力量もさることながら、当時の文化状況の一端を見る思いである。

いま“あの時代”と述べたが、それは創刊年の「68」に象徴される、若者による革命精神が世界を覆った時代、愛と平和と自由がもっとも叫ばれた時代、といえば良いか。裏返せば世界がもっとも権威主義的で、憎しみと殺戮と不自由が露呈した時代といえる。その5年後の1973年にわたしはこの世に生まれた。いったいこの「血と薔薇」の同時代を生きていないわたしが、なぜこの雑誌を思春期に渇望したかは、いま復刻版を読みながら考えていると、単なる性の目覚めによる興味以上に、この「68」が象徴する“あの時代”がある歪な形で私に内在していることがわかってくる。

というのも、わたしは子供の頃から親の書棚にある上記「血と薔薇」の執筆者たちのさまざまな作品に触れ、親が買いためていた60年代のレコードに浸り育ったからである。いわば1968年とは、わたしが生まれる5年前の親の青春の時代であって、親が家庭人となり子を産み、立ち去っていった青春時代なのである。わたしは親の青春の残骸に埋もれて育ち、知らぬうちに“あの時代”に子守唄のような甘い親しみを感じていたといえる。誰もがそのような親からの影響はあるものであるだろう。しかしどうもこの世代間連鎖には、幾分危うい「罠」が張られているようだと考える。

そもそも、わたしが自我なるものを形成しはじめた思春期のころの80年代の日本は、“あの時代”とは打って変わったバブル景気に突入している。「68」の革命精神などどこにもありはしない。世界は東西冷戦の最終局面にいたっていたが、平和大国に育った子供にはそんなことはどうでもよかった。小学生のころのわたしの記憶には、アメリカの冷戦勝利宣言ともいえる、あのロサンゼルス・オリンピックのファンファーレの響きが強烈に残っているのみである。

ただしである。わたしが親の書棚やレコード棚から受けた影響は甚大であった。先に「罠」と述べたが、知らぬうちに思春期にいたった先に、その「罠」はわたしを絡めとりはじめたのである。先にも述べたが、そのころわたしは暗い性的欲望の噴出にともない妄想を膨らましながらエロティックな詩とも散文ともいえないものを無我夢中で書いていた。今思えばそれは子が肉体的にも精神的にも親から脱皮する最初の時期である。そのようなとき、親を媒介して得た“あの時代”の文化は、おそらく直接同時代を生きた大人たちとは別種の、あたかも母の胎内で得た養分のごとく、あるいは父の筒の奥で形成した細胞のごとく、己の生誕の起源に対する断ち切れない愛憎をともなうアンビバレンツな感覚を伴って受容されている。

だから、いま「血と薔薇」を読み耽るということは、己のうちでの「詩」と「性」の同時発生期への郷愁を抱くと同時に、己の生以前への、親の青春期への郷愁を抱くことを意味する。おそろしいものである。歳を取れば取るほどに、人間は己の原点を確認したがるようだ。自らの生誕以前の記憶の原点など生物学的には幻に過ぎないが、そこに郷愁を感じるならば、私にとっての詩は、ほとんど蜘蛛の巣にはまったカマキリのように、弱り切ったことばの鎌で切っても切っても逃れられない、やがて幻の原点それ自身に喰われてしまう「罠」にはまった半死の産物に過ぎない。しかしそれも悪くはない。わたしにとって詩はけっきょくそのようなものなのだ。

 

中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。

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