ひとつここで「血と薔薇」復刻版の栞に種村季弘が寄せている文「永遠の少年・少女たちを乗せた船は……。コドモノクニあるいは『血と薔薇』の頃」があるので略しながら引いてみる。
「戦前の子供雑誌に「コドモノクニ」というのがありました。前夫人(故)矢川澄子さんのご両親なんかが関係していた自由学園系の子供雑誌で、澁澤さんなんかも読者世代のはずです。(略)つまり、たまたま編集関係者だった人たちに戦前東京の中産階級の子弟が多かった。しかもその子供部屋、コドモノクニは、一度戦争で破壊されて焦土と化してしまった。それがひとつのポイントです。
出身が下町、山手の別はあっても、戦後はひとしなみに焼跡です。その何もなくなった廃墟から失った子供部屋を再現したい。そういう暗黙裡の共通感覚があって、「血と薔薇」の映像なり言葉なりによるオブジェ・コレクションができた。」
この種村の視点が、当時編集者や執筆者が自覚していたかどうかは分からないが、かなり「血と薔薇」、さらには“あの時代”の文化状況の本質を見定めていると考える。「永遠の少年・少女たち」が宙づりのまま戦後生きつづけて「68」の革命期を彩ったということが、「血と薔薇」冒頭の三島の妙に歪んだ内省的な恍惚裸体写真と、一種の詩論とも言える男根主義的フェティシズムによる文章につながることはわかりやすい。たとえば三島のそのような詩意識を以下の田中光子の詩集序文でも垣間見せる。
「思ふに詩人的資質とは、極度に節約された言語による内的宇宙の全体的提示の能力なのであらう。このことは格別男性的女性的といふこととは関はりがない。詩的言語とはかくて、根底的な矛盾がある。すなはち、言葉の意味伝達の機能が極端に節約されてゐるのに、言葉は意味伝達以上の「普遍への要求」を担はされてゐるからである。何によつて内的宇宙の普遍性が保証されるかといへば、媒体は言葉であるけれども、保証する役割は感情の側にある。詩では、言葉と感情とはその役割を顚倒(てんたう)させられ、はじめ感情があつてそれを言葉が伝達するのではなく、言葉自体が感情を代表して表面に居並び、意味伝達としての言葉はあたかも感情のやうに、背後におづおづと隠れている。その書かれた詩作品はテレスコープのやうなものであり、倍率のよいテレスコープほど良い詩なのである。なぜならそれはより広大な普遍に接することを得させるからである。」(詩集「わが手に消えし霰(あられ)」序文、『決定版三島由紀夫全集36』)
「血と薔薇」の巻頭文においても、この序文においても一貫しているのは「普遍性」と「詩」があたかも共通のものとして扱われているところである。この「普遍性」が、どうやら種村のいう「永遠の少年・少女」の世界とつながる。三島は少年時代から詩人になりたかった。しかしそれは不可能であった。これは三島の詩的才能の有無の問題ではない。敗戦の1945年、三島は20歳である。この世代にとって詩は才能以前に「戦争」が破壊したものである。「戦争」が子供部屋の「純粋性」を破壊したのである。そしてこの「純粋性」は、「戦前」のまま時間停止し「戦後」に持ち込まれ、フラッシュバックのごとく68年に噴出する。これほど奇妙な話はないが、これこそ三島の詩精神がいかに「社会的影響」によって壊され、また維持されてきたかの証であろう。そしてそれがまた私の親の書棚から私へと引き継がれていく不気味さ……。
ではその「純粋性」=「詩」とは何か? 三島の場合、単なる皇道派の純粋精神のことか? それもまた単純な捉え方であろう。三島がいう「普遍性」=「詩」は、私にとってはオウム事件の背後にある「純粋性」と繋がっている。たとえば、村上は前回挙げた『underground2 約束された場所で』の「あとがき」で、元オウム信者たちが口を揃えて、自らがオウム信者だったことを後悔していないことについてこう述べている。
「答えは簡単だ。現世ではまず手に入れることのできない純粋な価値(5文字に傍点)がたしかにそこには存在したからだ。たとえそれが結果として悪夢的なものへと転換していったとしても、その光の放射の輝かしく温かな初期記憶は、今も彼らの中に鮮やかに残っているし、それはほかの何かで簡単に代用できるものではないからだ。」
この「純粋な価値」という言葉によって、そのまま三島世代の「戦前」の破壊された子供部屋の「初期記憶」について説明できるとわたしは考える。ここから「三島由紀夫」というひとりの小説家の内部を覗くだけで、近代詩と現代詩の断絶とは何か、もっと突き詰めれば、近代から現代における日本の「詩と社会」との関係とは何かをあぶり出す契機になると考える。
このようなわたしの考え方は果たして時代錯誤であるとして現代詩人たちは嘲笑うであろうか。それならそれでいい。ただわたしがけっきょく問わなければならないことは、いまこの時代に、この社会で、なぜ詩を書くのかということである。何より、いま世界的にテロリズムが多発し、排外的保守主義が大手を振るいはじめている現象の奥に、わたしはこの三島的な、あるいはオウム的な、「永遠の少年・少女」としての「純粋」、あるいは「純血」の精神があると考えるからである。そして、この純血主義から吹き出る「悪夢的なもの」と、いかに現代の詩は切り結ぶことができるか。
そう簡単には回答を出せない問いを発したところで今回は締める。これからのPoetry Reviewの道程は紆余曲折するであろうが、最終的に見出したいのは、要するにわたしのなかに潜む不気味な「純粋性」と「悪夢的なもの」とは何かということなのである。
中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。
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