そもそもであるが、NHKの連ドラが常にそうであるように、わたしは「とと姉ちゃん」のような家族のためにどんな苦労も厭わない「日本の女性」のステレオタイプを前面に押し出した、いかにも「正しい女性」像を再生産する教条主義をもっとも嫌う。ではなぜ見ているのかと問われると、先にも述べたように現在の日本の公共放送局が、お茶の間に届けようとしているごく常識的「戦中」「戦後」のイメージとは何であるかを知りたいがためである。

同時にである。平成の現在にうまく仮構された「とと姉ちゃん」という「戦中」「戦後」フィクションの背後に、確かに切り捨てられた非−教条主義的なる存在、つまり「正しくない人間」像がいることを透視したいのである。わたしは実にその「正しくない人間」=「非−フィクショナルな人間」こそが、「戦後」文学を支えた文学者・詩人たちであって、平成の世にNHKの連ドラで描かれるものではあり得ないと考える。なぜなら、彼らは「戦中」における徹底的な自己否定から、「戦後」の自己再生化(フィクション化)を図らざるを得なかったからである。

これは前回引いた「血と薔薇」の解説で種村季弘が述べたところの「コドモノクニ」の世代、本来フィクションのなかに生きるべきだった少年時代が、戦争という「現実(リアル)」によって上塗りされ「非−フィクション」化されてしまった世代の作家群のことである。特にそのなかでわたしが思春期に読み耽った三島由紀夫は、教条主義とは正反対の場所で徹底的に「戦後」をフィクショナルに生きた作家と言える。三島はその「フィクション」の中核に「美」を置いた。その美は「戦中」の「非−フィクション」化された闇の世界で、唯一手にしたフィクションであるところの、自室で「聖セバスチャンの殉教」画の「美」に取り憑かれ自慰をするという「禁制の美」として一気に戦後放出することになる(『仮面の告白』)。この「禁制の美」が、やがて橋川文三が定義した「耽美的パトリオティズム」(『日本浪曼派批判序説』)へと直結するわけだが、それについては後に検証する。

 

 

 

 

要するに、いま現在において、教条主義を代表するNHKが「戦中」の文学環境を表出するためには、大学の講堂で開かれる三好達治の詩の朗読会は描けても、薄暗い自室で涜神的オナニーをする三島少年は描けないということである。当たり前といえばそれまでだが、もしそうした三島が抱えた「戦中」のどす黒い「現実(リアル)」が完全に削りおとされた日向の生活ばかりのフィクションのみがこれから生産され、詩が描かれるならば、いよいよ日本の現代詩は、凧の糸がきれたように、ただ明るい青空をふらふらと流離うだけになっていくだろう。

しかし、連ドラのフィクション化の手法は実はそれほど安易ではない。罪人・三好達治の詩「乳母車」が湛える普遍的な精神のどす黒さは、冒頭に述べたところの、わたし個人の内部に宿るどす黒さとも同期するほどに精神の暗部の普遍性を帯びており、それは三島の「美」を支える暗黒のエロティシズムとも実は通じている。わたしが「乳母車」を良い詩と感じたのは、演出家が、周到に三好の詩の暗黒性を捉えて、「戦中」の詩人として登場させたからと考える。おそらくほかの詩人を取り上げるとしたら、もう一人の巨人であり戦争犯罪人、高村光太郎が候補にいたはずである。『道程』や『智恵子抄』を女子学生が読んでいてもおかしくない。しかし仮にそのシーンを想像すると、三好達治に比して、高村光太郎の詩は、わたしなどにとってはあの「レモン哀歌」のごとく戦後民主主義教育下で読まされたヒューマニティ溢れる「正しい詩」という印象が拭えない。それでは効果がない。三好のどす黒い詩を女子学生が明るく読む、この気持ち悪さこそが、実はいま三好の詩を「戦中」の詩の代表とする有効な材料であり、かつある意味で、三好の詩の魅力もその気持ち悪さにあると言える。

ここでもうひとつ、ドラマで引用された三好の詩を引こう。

 

グイド・レーニ「聖セバスチャンの殉教」

中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。

ブログ:http://takeandbonny.tumblr.com/

プロジェクト「死んだ目」:http://the-dead-eyes-project.tumblr.com/

 

 

 

 

copyright © 詩の出版社 midnight press All rights reserved.