甃のうへ

 

あはれ花びらながれ

をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ

うららかの跫音(あしおと)空にながれ

をりふしに瞳(ひとみ)をあげて

翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり

み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ

廂(ひさし)々に

風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば

ひとりなる

わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

 

これは同じくドラマのなかで文学好きの妹が、自宅で筆写していた詩である。これもわずか10秒ほどのシーンであるが、「乳母車」同様に詩集『測量船』(1930)に収められている。この詩もまさに筆写するごとく凝視するならば、その詩語のリズムから生まれる映像と音楽の余韻や、「をみなご」の幻の姿に恍惚とする「ひとりなる」詩人の狂気的描写は、こう述べて良ければひじょうに秀逸な抒情詩とモダニズム詩のミクスチャーであると思う。まるで鈴木清順の幻想映画のエロティックなワンシーンを思わせる(なお「戦中」に青春期を過ごした鈴木清順(1923〜)による浪漫三部作『ツィゴイネルワイゼン』(1980)、『陽炎座』(1981)、『夢二』(1991)は、大正から昭和への不穏な日本の空気のなかで生きた「正しくない人間」たちを見事に「映像詩」としてフィクション化した代表例と言えるのでご覧いただきたい)。

 

 

 

 

 

では、このように、三好達治の詩が、戦後詩によって否定されながらも命脈を保ち、いま描かれる「戦中」フィクションのなかで、やはりあの時代の詩を象徴するのは高村光太郎ではなく三好達治だったという事態にぶち当たっていることを、現在の日本との共時的問題としていかに捉えることができるか。

それは、三島の《詩意識》の源泉でもある「日本浪曼派」しかり、三好が寄った「四季派」しかり、またそれらを戦後批判した鮎川ら「荒地」派の詩人たちの源泉であるモダニズム詩しかり、すべての「戦中」下の詩人たちの失われたアドレッセンスの闇のなかで、三好達治の詩は不穏な横糸となって戦後まで糸を引き、わたしたちの精神の内部で発酵しつづけていたことを意味する。わたしたちはまだ「戦中」の悪を完全に払拭できはしないのである。

なるほど、ドラマ「とと姉ちゃん」のなかで、三好の「乳母車」にみる「母」なる存在の希求を、まだ母にならない女子学生に滔々と読ませ、「甃のうえ」の男の性的妄想を女子学生に筆写させる、という「戦中」の男性中心主義が、当然ながら時代性を表すものとして批判的に描かれていることは言うまでもない。

ここから、戦後文学の男性中心主義は、さらに三島の男根主義は戦後民主主義の日本になぜ受け入れられ、現在の保守主義者たちの偶像となりえたのか。そしてわたしはなぜそのような三島的な「禁制の美」を思春期に読みながら「詩」に目覚めたのか、という問いがつづく。

今回はこの辺りでいったん終えるが、ひとついまこの問いへの取っ掛かりとなるのは、三島文学の出発点が、秘匿された自室の涜神のオナニーであることと、その終着点が「血と薔薇」巻頭を飾った自身のヌード写真「聖セバスチャンの殉教」のごとく、少年期の性欲の対象の「神」へと自ら合一するという倒錯劇で閉じられたことである。いわば「戦中」の「正しくない人間」を完全に「フィクション化」しきった転倒した美学が、「耽美的パトリオティズム」の果ての「自決」という「現実(リアル)」に接続し、フィクションとリアルの境界が消えるのである。そしてわたしはこの三島文学の「フィクション/リアル」の円環を、「戦後」から現在にいたるもうひとつの「詩」と呼ぶ。なぜならいま保守台頭のなかで知らぬうちにこの「詩」がアクチュアルなものとなりはじめていると感じるからだ。そして「詩と現実(リアル)」、「詩と社会」の関係についていま考えるならば、この円環の仕組みを深く解明せずして、三島問題だけでなく「戦中」の詩も、「戦後詩」も、「現代詩」も、もっといえば「日本の詩」自体もいま根本から読み直すことはできまい。

ひとつ、先の三好達治の詩の続編としても読め、かつ「とと姉ちゃん」では決して読まれることのない、当時18歳の三島が「戦中」に書いた薄暗い「禁制の美」のフィクション「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」内の詩をここに引用し、これが「戦後」の昭和23年、つまり「暮らしの手帖」ブームが訪れたときに発表された必然を考えながら次回につづけたい。

 

 

彼  殺人者をよろこび迎えてうたえる諸(しょ)にんのうた。

 

あな冥府(めいふ)の風吹きそめたり

物暗きみ空の果

日は西風に

爛漫(らんまん)と沈みゆきぬ

(罪の光はわが身に充(み)ち

姿透(す)くがにかがよいたり)

 

諸人(もろびと)にとりて他者(たしゃ)

神々にとりて他者

さて花のごとく全(すべ)てなる

轟々(ごうごう)と沈みゆきぬ

 

迎えなん 熟(う)るるものよ

その力をもちて転瞬に哭(な)き

その嘆きをもちて久遠に殺せ!

 

 

「陽炎座」予告編

中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。

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