Poetry Review 17
「内なるファシズムと詩の恍惚(エクスタシー)
―リルケ、アーレント、三島―」
薔薇の内部 ライナー・マリア・リルケ 富士川英郎訳
何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内部に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちみちて 圏を閉(と)じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ
ようやく夏が終わった。前回、NHK連ドラ「とと姉ちゃん」の戦中時代の描写における三好達治の詩を取り上げながら、その男根主義的な詩や、三島由紀夫の戦中の短編「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」中の殺人美学の詩で終わらせてから3ヶ月以上が経ってしまったが、すでに「とと姉ちゃん」は戦後日本の復興まですすみ放送を終えた。この間、実は私は長年患っていた痔の手術をして2週間ほど入院したが、入院中、十代から折をみては読んできた『リルケ詩集』(富士川英郎訳、新潮文庫)をまたじっくりと読んでいた。リルケの詩など古臭いといまは思われているようだが、わたしには読むたびに新たな発見ができる「常に新しい詩人」である。特に肛門の痛みに耐えながらリルケを読んでいると、これまで感じることのなかった、なんとも言えない幸福感のようなものが全身を覆った。
そして退院後の安静にしていた2ヶ月が過ぎ、肛門の傷もだいぶ癒えたころ、またしてもテレビの話になってしまうが、BS海外ニュースがふと目に飛び込んできた。現在、オーストリアではヒトラーの生家を取り壊すかどうかの議論で世論が二分しているというのである。残存させるべきと主張する知識人側は、歴史を忘却させぬために過去の「悪」の遺産を、あのアウシュヴィッツ強制収容所のごとく残すべきだというが、取り壊すべきと主張する政府当局は、現在オーストリアのネオナチ系政党の台頭著しく(元ナチス党員が結成した「自由党」で、世論調査では5割の支持を得て、きたる大統領選で勝利する可能性がでている)、彼らによってヒトラーの生家が「聖地化」されつつあるため、とのことである。詳細はここで読める→http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2016/10/1004.html
たまたま痔の手術中に、オーストリアの詩人リルケ(1875 -1926)を読み込んでいたわけだが、わたしのなかでリルケを読み直す時代の到来をいま感じている。たとえば上掲「薔薇の内部」などは、メスによって我が肛門の「内部」を抉られたのちだけに、冗談ではなく肛門と薔薇をシンクロさせ、なんども「何処にこの内部に対する/外部があるのだろう?……内部に映っているのは/どの空なのだろう?……そして外部はますますみちみちて 圏を閉じ/ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に/夢のなかの一つの部屋になるのだ」と病室の窓から夏空を眺めながら繰り返し読んだ。そして、リルケの一見やせ細ったような詩から放たれる苛烈ともいえる存在論的認識は、ひとりの詩人が持ち得るものとは到底思えない衝迫力で私を常にゆさぶる。いわば「薔薇」という事象に託した存在の深奥への凝視から、一気に「内部と外部」、「精神と肉体」、「夢と現実」「生と死」の形而上学的統合へと昇華する詩句の閃光は、わたしの頭から肛門を貫通し、幸福どころか思考と肉体双方への恍惚感をもたらした。
ライナー・マリア・リルケ
この「詩的恍惚(エクスタシー)」が、この連載で追求するところの本題である。なぜならこれこそが、日本の現代詩が切り捨てようとしたところの、いわば戦前、戦中の、そしていまオーストリア本国で復活の兆しをみせているファシズムの美学へと直結する忌まわしき詩学にも通じるからである。だからリルケ詩との肛門的邂逅は僥倖であった。前回の課題を引き継ぎ、戦前、戦中、戦後、そしていまを貫く「詩的恍惚(エクスタシー)」とはなにかを模索しようと思う。
つづいてリルケの詩を引用する。
中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。
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