それは目の前の「死」以外にない。「死」こそが三島がのべる「最高の自由をもち、いわば万能の人間になる」ことを自らに呼び込む。この三島のファシズムの解釈からみると、アーレントの全体主義との対決を軸に展開させた思想もまた、最終的には何者にも隷属しない「万能」の人間になるための「生」のあり方として同類の思考法に読めてくる。

 

アーレントは、「生」の最善のあり方として、主体が「生」を思考しつづけ、他者を前に「生」を「物語る」=「ナラティブ」する行為を遂行することであると考えた。しかしそれこそが実にリルケの詩作行為であり、三島の文学=「物語」行為であった。アーレントは「生」のナラティブに固執したが、リルケ、三島ら戦前の詩人、作家は、「死」のナラティブによって〈最高の自由と万能〉を捉えた。アーレントと何が違うか? 「物語」=「ナラティブ」行為、わたしはこれを今後徹底して追求していきたいが、これこそが民族の<神話化>による優位性の確立と排他主義を生む全体主義の温床でありながら、かつそこから脱却し得る個人の「生」の樹立の唯一の可能行為でもあることをアーレントから学ぶ。アーレントはハイデガーの詩想を継承し、リルケを愛し、詩を書いた。自らのうちにあるリルケ的恍惚(エクスタシー)、やがて全体主義と結びつくだろう「死の万能」の恍惚(エクスタシー)を、単に過去の「悪」として滅却するのではなく、自らの「生」の「実践」へと受蔵し得た真の詩人であったと思える。いわばアーレントの「詩作」とは、アーレント自身の「死/生」の恍惚を仮借なく「物語」る=ナラティブ行為であった。己の内なる敵―「死」―「ファシズム」を物語り、言葉に激烈に放射させてはじめて詩は己の「存在」を輝かせるのである。(アーレントについての詳細は当然ながら専門外であるから異論は免れぬ。今後詰めて行きたいが、「物語」=「ナラティブ」については、ジュリア・クリステヴァのアーレント論『ハンナ・アーレント <生>は一つのナラティヴである』(作品社、2006)を参照されたい。「誕生と死を自らに示し、誕生と死を時間のなかで考え、そして他の人々と分かちあうことで誕生と死を〈他者〉に話す可能性――要するに語る可能性――こそが、特殊なもの、動物的ではないもの、生理的ではないものをもつ人間的生に基盤を与えることになる」(p62))。

 

やや荒っぽい話になったが、はたして日本の現代詩はこの「物語」=「ナラティブ」行為をどこまで実践してきたのであろうか。単に戦前の「悪」を過去のものとして、あるいは「語りたくない」ものとして、己の内から消え去った外部のものとして措定したがゆえに、「生」の楽観主義が生まれたのではないか。いま、私たちは「戦後」という時代の延長に確実に位置している。しかし戦後は先ものべたように「後」の世界としてわたしたちは捉えてしまっている。その「戦後」システムの記憶装置がもしあるエラーを起こし、もはや「後」でなくなった時、「戦前」的世界は一瞬にして現在になる可能性は高い。オーストリアは、いやヨーロッパは、世界はそのシステム・エラーに直面しているし、日本は原発事故という人類知最大のエラーを発生させたばかりだ。いまや、「戦後詩」、「戦前詩」などの楽観的歴史区分を見直さなければならない。

 

今回は最後にもうひとつリルケの詩「詩人の死」を引用して区切る。この詩のもつおぞましさと恍惚……ここに「死」が「内面」で実り、そのまま外在化する瞬間が捉えられている。わたしはいつもこの詩を読むと、19世紀半ばのラファエル前派の画家ヘンリー・ウォリスの「チャタートンの死」を思い浮かべ、ほとんどエロティックな衝動さえおぼえる。この「死」を単に20世紀的な過去の産物と突き放すか、あるいは現在の世界で起きている「死」と捉え、その万能性ゆえにまたしても詩的恍惚(エクスタシー)を感じるのか、それは果たして21世紀に持ち越されたエラーとしてのわたしのなかのファシズムの萌芽なのか。この詩から、次回はより三島の「物語」=「ナラティブ」における「死/生の物語」の反転構造を細密にみつめ、いったいわたしたちの内の何がエラーでなにがノーマルなのかを、「詩」を鍵として追求したい。

 

詩人の死

 

彼は横たわっていた 彼のそこに置かれた顔は

うず高い枕の中で 蒼白く ものを拒(こば)んでいた

それ以来 世界は また世界についてのその認識は

彼の感覚から引きはがされ

冷ややかな歳月(としつき)にまた戻っていったのだった

 

 生ける彼を見た者は知らなかった

どんなに彼があらゆるこれらの世界と一つになっていたかを

なぜなら これらの谷 これらの牧場(まきば)

これらの河は彼の顔であったのだから

 

ああ 彼の顔はこれらの全体の広い世界だった

それはいまなお彼のところを欲し 彼を求めている

そしていまおびえつつ死んでゆく彼のマスクは

柔らかで 開(ひら)いているのだ まるで大気にふれてくちる

果実の内側のように

 

 

 

 

 

 

 Henry Wallis The Death of Chatterton(1856)

 

 

 

 

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中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。

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プロジェクト「死んだ目」:http://the-dead-eyes-project.tumblr.com/

 

 

 

 

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