New Poetry Review をはじめるにあたって 中村剛彦
村上春樹『underground2 約束された場所で』(文春文庫、2001)を最近読み直した。1995年の地下鉄サリン事件を引き起こしたかつてのオウム真理教の一般信者たちを取材したもので、事件当時まだ二十二歳だった私は、その無差別殺人という許されざる行為への拒否反応と、この本で村上に語る信者たちの言葉に対するある種の共感を、うまく自分では処理できないままでいた。いや共感というと大げさで、単に彼らの言葉に特に目新しさや奇異なものを感じることができず、自分と変わらない「普通」の精神にしか思えなかった。それゆえこの本は極めて退屈に思え、ひとまずは村上春樹という十代のころ読みつづけていた大流行作家が、なぜこの事件に執拗に拘っているのかといったことに関心を絞って読むしかなかった。結果は、村上文学の現実逃避的精神を村上自身がオウム信者たちに見出し、その文学の危機を感じたためであろう、くらいの表層的な感想であった。その後はこの本を読み返すこともなく、不思議と村上作品への関心も薄れてゆき、ほとんど新作が出ても読んでいない。
しかし今年事件から20年、新聞やテレビ、ネットのニュースなどでも大きく取り上げられ、また私個人ここ数年、自らにとっての「詩」とオウム事件との関係を考えていることもあり読み直してみた。すると村上春樹という作家の偉大さを改めて知ると同時に、この作家にある「不気味さ」を覚えた。そして当時は退屈としか感じなかった信者の言葉一つ一つに、背筋が凍るような感覚を覚えた。
なぜかというと、あれから20年たったいまも、つまりもう40歳を過ぎたいまも私が考えていることが、あの当時30、40代だった信者たちのそれとほとんど変わっていない、と思えたからだ。
本のなかで一人の男性信者(当時35歳)は地下鉄サリン事件の後のことについてこう述べている。
「しかしそれでもオウムに対する好奇心を抑えることはできませんでした。どうして好奇心を持ったか? これだけ世間に叩かれて、どの書店もオウムの本なんか扱ってもくれないのに、それでもまだ活発に機関誌を出している教団の体質というか、その潰しても潰しても生き返ってくるような、不気味な生命力に対して好奇心を持っていたのだと思います。」(p75)
多くのマスメディアは、こうした精神をマインド・コントロールされたものとして警鐘をならす。特に地下鉄サリン事件を知らない若者の信者数が増えていることから、その危険性を訴えている。しかしこの本で村上春樹が取っている姿勢の優れた点は、この信者が言うような「潰しても潰しても生き返ってくるような、不気味な生命力」が自らの文学の本質にもあることを手放さずに、単に「お前はマインド・コントロールされている」という上から目線ではない、あたかも自己内対話を繰返しているかのように問答を繰り返しているところである。付録の河合隼雄との対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」では、取材相手の信者を「素直に好きになれる」と述べ、
「じっと話を聞いていると、相手の中に自然に入っていくという感覚があるんです。巫女=ミディアムみたいな感じで、すうっと向こう側に入って行けるような気がする」(p278)
と正直に語っている。この「巫女=ミディアム」という自己の捉え方は、さすがは世界的作家だけにそうであろうと頷かずにはいられない。おそらく村上は小説を書く時も「巫女=ミディアム」となって全世界の裏にざわめく声を聞き、言葉にしていると私は考える。
むろんこの村上の姿勢自体には批判したいところもある。それは村上文学がどうしても消すことのできないある種の「軽み」、いわば人間を記号的な存在としてしか取り扱えないストーリーテリングの精神と、信者たちの精神を同期しすぎてしまっているからである。なるほど「巫女=ミディアム」であることは、すなわち信者たちの言葉の数々を村上ワールドへと取り込んでいることにもなる。そのことをまた村上自身が認識していないわけがなく、先の河合隼雄との対談のなかで、
「僕は昔から自分の小説の中で、悪というもののかたちを書きたいと思っていました。」(p273)
と述べて、地下鉄サリン事件にまで発展する信者たちの精神構造を自らの文学的モチーフと同期させてしまう。そして、
「こんなに多くの人を惹き付けるストーリー性とはいったいどんなものだったのか。そしてそのようなストーリーがどうして結果的にあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか。そう考えていきますと、物語には良き物語と悪しき物語があるんじゃないかと、そういうところにまで行ってしまいます。」(p285)
と言う。
当然ながら、ここで村上は勧善懲悪の立場で述べているのではなく、この「悪しき物語」が、現実への一線を乗り越えてしまったコントロール不能なところまで暴走した結果を、自らの文学の本質に設定している「悪」と照応させながら語っているのである。
しかし信者たちの精神と自分の文学精神の類似構造との間の決定的差異が、自分は作家として主体的に社会的責任を荷なって生きているが、信者たちは他者へ責任を転嫁しているとしか感じられないという考えに至る。もう一つの河合隼雄との対談「『悪』を抱えて生きる」のなかではこう述べる。
「僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分1人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です」(p295)
これには正直驚いた。なぜなら「責任」感のない人間とある人間が同じ精神構造であるはずがないからだ。卑近な例で考えれば、飲酒運転は人をひき殺すかもしれないから絶対にしない、という「責任」観は、その裏に重い国家による法的かつ社会的制裁が課せられることを回避する自己保身の精神にも支えられている。村上文学はけっして飲酒運転をしない。信者たちは逆である。はじめから国家に強要された「責任」も「自己保身」も捨てているからこそ「出家」をし、日本国内の治外法権ともいえる疑似国家へと移住し酒(教義)に酔って運転していたにすぎない。そしてその酔っぱらい運転が易々と国道へ乗り込んだがゆえにテロリズムへと転じたのではないか。けっきょく村上は信者たちの精神を自らの文学精神に同期させてしまった錯誤を「決定的な差異」として覆い隠すように「責任論」に転嫁せざるを得なくなった。実はもともと村上文学とオウムはまったく別物であると考えてみなければならない。
ただこの村上の錯誤は村上だけの問題ではなく、今日の作家、そして詩人を含めた知識人全体が、社会現実と対峙する上で、もっといえば読者と対峙するうえでどうしても陥ってしまうところでもある。なぜなら自ら記述した世界像が現実世界とぴったりと合致していると信じきらなければ、同じ世界に生きている読者に向けて書く意味などまったくないからである。そう言うと、いや、私は未来の何者かに向けて書いている、この世界にはない幻想の、理想の世界を書いている、または誰のためでもないひとりの単独者として、絶対の孤独者として誰に読まれることもなく記述している、などなどさまざまな反論もあろうが、これらはみな現実世界に立脚した地点での動機の違いを述べているに過ぎない。すべて語られ書かれた言葉である以上、それは現実世界へと吸収され合致してしまう。そしてほぼ全ての者が、飲酒運転をせずに現実世界の安全圏でものを書いている。
オウムの問題は実はこの根本から違う。地下鉄サリン事件はけっして「物語」ではない。「物語」以前に別の問題が潜んでいる。これは村上がいみじくも信者から引き出した先の言葉「不気味な生命力」がヒントとなる。彼等は(そして彼らを惹き付けた教祖もまた)何も表現などしていない。私は最初に、彼らの言葉が何ら変哲もない、自分と変わらない精神と思え退屈した、と述べたが、この退屈さは実は「物語」のなさを意味する。いわばのっぺりとした、起承転結のない普通の精神、つまり現代日本の一般大衆の精神そのものであり、私自身の退屈な精神そのものである。村上ももちろん承知である(「あとがき」で彼等を「普通以上」に普通であると語っている)。そしてこの何ら特色のない、個性のない、まったく退屈な人間精神こそが実に「不気味な生命力」を持っているのである。
例えば、村上にこの言葉を引き出された信者は、自分は海がとても好きだと言い、また大自然がとても好きだと言い、いっときは都会生活が耐えられずエコロジー思想へと傾斜したとも言う。そうでありながらあの「もんじゅ」の建築現場で働いていたとも言う。この「不気味さ」は何だ。私も海がとても好きである。毎週のように湘南の海に行って夕陽をみる。犬と一緒に遊ぶ。そして私は家に帰りクーラーの電源を入れ、パソコンに電源を入れ、酔っぱらいながら「3.11」について考え原発の恐ろしさを噛み締めてみたりする。この「不気味さ」は何だ。
さらには、信者たちは「純粋」という言葉が好きである。つまりこの汚れた世界から逃れたいのである。オウム真理教は特に純粋培養されたエリートの多くの「純粋」な精神を鷲掴みにしたことは良く言われるが、なんてことはない、エリート以外の大衆もみな「純粋」を求めている。みな純愛を描いたドラマに熱を上げ、純粋な自然の姿を見に休日にせっせと山にのぼり、また海へ向かう。私もそうだ。詩は「純粋」でなければならない、という妄信がある。有名なランボーの詩句ではないが、すべての現世の汚れが消された「永遠」への憧憬、あの「太陽に溶ける海」の純粋性への憧憬がある。それゆえに、頭のどこかで永遠に海のように自分は生きつづけるのではないか、という錯誤がある。いつか人間は死んで自然界に還るのだったら現世における何事にも拘ることはないのだ。そう言いながら、その実、己の生を充実させようと修行(詩作)するパラドックスは、ただただ「不気味」である。そう考えると確かに、村上作品に多く登場する不感症的な、魂が抜けたような登場人物の、肉体と精神の完全な不一致の「不気味」さは、卓越した「巫女=ミディアム」が大衆の精神を見事に代弁した結果ともいえる。オウムは恐らく、そうした大衆の得体の知れない精神構造そのものが、村上流に言えば「無責任」な精神構造そのものが、物語でも何でもなく現実世界に当たり前のように現出した結果に過ぎないと私は考えている。
ヒューマニストからは、これは認められない考えと批判されるかもしれない。魂は永遠に生きられるという錯誤のもとに人を殺める行為を寸分でも認めることは、実際の被害者やその家族の傷を顧みない文学かぶれのおごりの精神か、狂気以外の何ものでもなく、多くの善き大衆の精神ではけっしてないと。さらには私の親の世代、いやもっと上の戦争を経験している世代からすると、このような考えは苦労なく生きてきた甘やかされた者の「平和ボケ」と括る者もいよう。それも認める。頭ではかつてのこの国の戦争の悲劇について理解し、いま世界で頻発する紛争やテロ行為への反対表明を示そうとも、腹の底ではこの飽食の国で消費生活に明け暮れ、つまらない自分の内面ばかりを見つめて生きている。まさに「平和ボケ万歳!」と開き直ってしまうほどに、私は己の命の尊さを知らない。ゆえに他者の命の尊さを知らない。皮肉であるが、私は戦後の平和主義教育にどっぷりマインドコントロールされてしまったがゆえに実感としての命の尊さを知らない。そうした私の欺瞞性をこの本で語られる多くのオウム信者の言葉に見出し、実に背筋を凍らせたのである。では、どのようにこれからこの甘ったれた残酷な非ヒューマニスト的精神と対峙して行けば良いか。
この『約束された場所で』を読んだすぐあとに、私は愛する一篇の詩を読んでいつも以上に感動した。
この近代詩の名作中の名作に、なぜオウム信者の言葉を読んだ後に感動してしまったのか。「わがひと」と「手をかたくくみあはせ」ながら、「音なき空虚」に包まれ、「殆ど死した湖の一面に遍照」するものへの憧れ、何かの「純粋」な、肉体を超えた精神の光明を私は確かに求めているに違いない。しかし詩集『わがひとに与ふる哀歌』が世に出たのは昭和10年である。80年前、ひとりの田舎教師が書いた短い詩句が、いまオウムを語る私を感動させるこの事実はいったい何であるか。私の頭のなかで昭和10年という戦争の時代と、平成27年という平和の時代は確かに細い糸で繋がっている。いやむしろこのような「詩」が、村上の言う「物語」を超えた力をもって私を鷲摑むとするならば、実は「純粋」を求める大衆は今も昔もまったく変わっていないのではないか。あるいは時代がまったく変わっていないのか。そしてこれからいったい私は、大衆は何を「詩」に求めようとしているのか。
このように、いま、自分の頭のなかをぐるぐると得体の知れない「不気味」な問題が進行しているが、時代もまた「不気味」な方向へと愈々進行しているのも事実である。この新しいホームページではじまる「Poetry Review」では、これまでの一回の読み切りの形でなく、連載として、私の頭のなかでこんがらがった糸をほぐすように、丁寧に、かつ迅速に書いていこうと思う。
中村剛彦(なかむらたけひこ) 1973年横浜生まれ。『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス、2003)、『生の泉』(同、2010)。midnight press WEB副編集長(2017.3月まで)。
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