詩は何を書いてもいい(あるいは、詩は何を書くこともできる)――。このことは何度確認されてもよいことだ。ただ、この「を」にとらわれて、主題主義に陥ることは避けねばならない。■詩は何を書いてもいい――。これは、なによりもまず、詩という形式、詩という方法の確認である。これを「自由」という言葉に短絡させてはならない。■詩は何を書いてもいい――。この方法の確認においては、いわれるところの「人生派の詩」とか「芸術派の詩」とかいった分類は皮相にすぎない。もとより、詩にジャンルはない。あるのは、ただ一篇の詩ばかりである。では、残された課題は?■いくつかの軸を想定することができる。たとえば、「好きな詩」「嫌いな詩」。好みは絶対だが、相対化の契機とはならない。■「いい詩」「悪い詩」というのはどうだろう。これについては、最近、北川透氏と瀬尾育生氏とのあいだで、「詩の主格」をめぐって話し合われたことが記憶に新しい。これはさらに考えるべき課題のひとつだろう。■折りにふれて僕が思い出すのは、十年ほど前、「ほんとうの詩」「うその詩」という軸の据え方は可能かどうかと吉本隆明氏に尋ねたことだ。そのとき、吉本さんは、?自分のなかにある、「詩とは何か」という問い、?現在の詩の言葉の表現の水準を考えた上で、「詩とは何か」という問い、?詩とは全く関係ない現実世界との対比の上で、「詩とは何か」という問い――この三つぐらいを追いつめないと、「ほんとうの詩」か「うその詩」かということは簡単には言えないと答えられた。「詩の雑誌midnightpress」を編集発行するとき、立ち返る場所だとの思いは強い。■今号は、吉増剛造氏の書き下ろし二百行、桜井亜美さんの書き下ろし詩集の二本を掲載することができた。また、鬼才・橘川幸夫氏のライヴトークが始まった。なお、瀬尾育生氏の連載は筆者の都合で休載させていただいた。次号は2000年の春。みなさん、よいお年を。 (岡田)