「ひとつの世紀が――二十世紀が――暮れようとしている」と、小誌創刊の辞を書いたのは98年の夏である。「そして、いま、詩もまた昏れようとしているのだろうか」と、ないやらパセティックな調子で、それは続けられている。実際、当時を思い返してみても、新しい雑誌の創刊という旅立ちの気分を味わう余裕もなく、未知の荒野へと向かう修行僧のような気分であった。■さて、あれから約三年――。気分は変わらずか、といえば、そうともいいきれない部分をかかえはじめている。詩が、詩というものが、詩の内部から、そして外部から、はげしく問われている。なんらかの事象をもって、そう考えるのではない。あくまでも、この「詩の雑誌midnightpress」を編集発行していく過程で、内圧として生まれてきたものである。■そうした日々のなかで、松本圭二の『詩篇アマータイム』を手にした。そして、詩集と出会ったという昂揚を久しぶりに覚えた。一冊の書物として、まるごと詩集と出会ったという思いを強くした。なるほど、今号で福間健二が「松本圭二という個人の生に、こういう詩集をつくるときが訪れた。とにかくそういうことである」と書いているとおりであろうが、この詩集の出現は情況的である。この「サタンの書」は、いま、詩とは何かをクールに、はげしく実践している。■ここに、今年刊行されたふたつの全詩集を並べてみよう。ひとつは、1500頁を超える大冊『田村隆一全詩集』もうひとつは、一枚のディスクに収められた『CD-ROM谷川俊太郎全詩集』。一冊の本と一枚のCD-ROM、このふたつの全詩集が並ぶ光景は、2000年にふさわしく情況的である。そして、言葉で世界と渉りあう営為のなんたるかを考えさせられる。■悲観もせず、楽観もせず、二十一世紀への入り口に立つとき、何が見えてくるのだろう。高校一年生の元山舞さんの詩集『青い空の下で』がどのよう情況を生きていくのか、一人の詩の読者として追いかけていきたい。「詩の教室――一般クラス」は、川崎洋さんが入院されたため欠講となりました。次号には元気になられて開講されると思います。 (岡田)