詩の雑誌13号
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主な内容 2001年秋13号(2001年09月5日発売)内容
●詩作品
木島始 安藤元雄 渡邊十絲子 タケイリエ 田中庸介 和合亮一 平田俊子 宮沢和史 
●連載対談 9
日本語と英語、行ったり来たり
谷川俊太郎+正津勉/ゲスト アーサー・ビナード 木坂涼
●詩人とはなにか
長谷邦夫 瀬尾育生 二沓ようこ 澤好摩 根本明 上野山好紀
●報告/日韓現代詩セミナー及び<新しい風>合同出版記念会
丸地守
●『CD詩集 こうせき』を聴いて
藤井東 ぱくきょんみ
●平居謙の「ごきげんPOEMに会いたい」第7回
 足立和夫&山村由紀の巻
●詩の教室 高校生クラス 清水哲男 一般クラス 川崎洋
●その他の執筆者
大澤龍生 長谷邦夫 松岡祥男 根石吉久 高取英 大家正志 井坂洋子 神山睦美 井上輝夫 満冨惠子 萩原健次郎 青木栄瞳  くぼたのぞみ 松本亮  ハルノ宵子 元山舞 

■表紙「恋人たち」・目次・本文イラスト 永畑風人
■写真 野口賢一郎


「われ正路を失ひ、人生の 旅半にあたりてとある暗き林のなかにあるを知りたり」(ダンテ『神曲』、山川丙三郎未刊改訳版による)。炎天の下、 事務所に向かう道すがら、ふとダンテの一節がよみがえる。この「われ」とは、いったい誰だろう。││まず第一には、ダンテ・アリギエーソその人に相違なかろう。だが、いま、この炎天下を歩いている自分かもしれない……。いや、それよりもふさわしいのは、日本の詩かもしれない。■「日本の詩の傳統はと見ると、余り豊富だと云ふことが出来ない」と書くのは、一九三四年の中原中也である(ここでいう日本の詩とは、「明治初年井上博士に依って新体詩と銘々された。泰西の詩を見てから後の詩のことを云ふ)。「短歌や俳句がちゃんとした娘ならば、詩の多くは云ってみればおひきずりであった」。「『傳統がない』、謂はば『型がない』と『見本がない』といふやうなこと程、詩人にとって辛いことはないのである。詩人が辛いばかりではない。讀者も亦辛いのである」(ただし、「茲で『型』といってゐるのは決して詩の造形を云ってゐるのではない)。そして、「現今詩人達が明治・大正の遺産だけで間に合はす傾向があるのに反し、何しろその見本は身邊に乏しかった明治の詩人は本場のを勉強し活氣を持ってゐたと考へられる」とも。■引用がうるさすぎたかもしれないが、二〇〇一年の夏、中也の・詩とその傳統・を読んでいると、・とある暗き林のなかにあるを知・る・われ・がいるのである。……と、ここまで書いて、これ以上書くべきものはないことを知る。この炎天下、目に見えるのは、遠い道ばかりである。小誌もまた、遍歴の旅に出よう。■福間健二氏の「詩は生きている」は筆者の都合で休載させていただきました。(岡田)




ぐるぐる回り     木島 始

  りんねを避けるのは初歩の初歩だよ
  えっ? リンネの分類は基礎の基礎でしょ
  点滴の液体が 呟きをはこんで回りに回るうっ

捨てられっぱなしなど
ありえない
再生しないなどということ
ありえない

万物が
流転する
その輪廻の思いとは
地球に生まれてきた
脳のなかで
言葉の思考が幾億回かの試行
錯誤の回転また回転を
しつづけるうちに

ふと
その回転そのものに
気づいた瞬間に
閃いた
個を超える実相への
眼力のわざだ

変形しないことなど
ありえない
共通の無を抱えこまないなど
ありえない

  りんねリンネ輪廻りんねリン
  リンリンリン 聞こえないのに
  点滴の液体は 囁きを吐きだしてきそう


注 第一行「りんね」 この五年余りわたしが楽しんできた四行連詩では、こういう制約は全くないが、「りんね(輪廻」は、「連歌・俳諧で、相連接する三句の第三句が第一句と近似した語句・趣向などを繰り返すこと。付合上、最も嫌うべき禁制事項」(広辞苑)。

 第二行「リンネ」 スウェーデンの博物学者。カール・フォン・リンネ。