詩の雑誌 midnightpress19号 |
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2003年春19号(2003年3月5日発売) ●新詩篇 松下育男 |
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「詩の雑誌midnightpress」19号をお届けします。今号は、巻頭に松下育男の新作詩篇を掲載した。『ビジネスの廊下』(一九八八年刊)以来の新作は事件といってもよいだろう。『ビジネスの廊下』とほぼ時を同じくして刊行された、小誌の前身にあたる「詩の新聞midnightpress」創刊号(一九八九年一月刊)で、松下育男は書いている。││「詩集を出すごとに詩の新鮮味は失われ、自己模倣と、安易なテクニックが活字になって行く。……(略)……書き上げられたものは、確かに詩だったが、詩として残ることのない、不思議な詩だった」■「詩集を出したいのだけど……」と送られてきた松下育男の原稿を読むことは僕を緊張させたが、読み進むうちに、詩の言葉がいかに選択されているか、その時間の密度がゆっくりと伝わってきた。このほかにも未発表詩篇を収めた松下育男の新詩集『きみがわらっている』は初夏に刊行される。■「詩の雑誌」とうたっているのだから、いま書かれている現代詩を誌面でひろく紹介することは当然であろう。だが、その当然さを疑う回路を併せもつこともまた必要ではないか。深夜、ふと考える。詩は││一篇の詩は││、それ自体から生まれ、それ自体として存立するのか、と。逆に、それ自体から生まれず、それ自体として存立しない詩を考えてみる。もとより、いずれが真かということではない。つまり、こういうことだ。■今回、松本亮氏の「素顔の金子光晴」を校正していて、いくつか目から鱗が落ちるような思いにとらわれた。金子光晴に即して考えたことはひとまず措いて、「時の流れというのは人の気持ちも変えてしまう」という言葉に、近頃考えていることが重なったのだ。つまり、「時の流れ」は「人の気持ちも変え」るが、詩もまた時の流れによって変えられるものであろう。だが、同時に、詩は自らも変わっていくものであることを忘れてはならない。「詩の雑誌」をうたう小誌もまた変わりつづけ、進化しつづける途を生きていくだろう。■小誌に広告を出していただいている静岡ビクトリアホテルで、6月22日、三上寛氏のライヴが開かれることに鳴った。また、瀬尾育生、稲川方人両氏の対談は都合で次号に掲載される。(お)
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