谷川俊太郎氏が、あるところで次のように語っていた。「詩に感動する人にもいろんな層があって、かなり洗練されたものでないと満足しない人もいるし、わりとポピュラーなところでいい人もいる。僕は全部ひっくるめて詩の世界だと思っています」。■一見、かんたんに語られた言葉のようであるが、実は意外と深いところを衝いた言葉ではないだろうか。僕には、いま書かれている様々な詩の差異を云々するよりも、詩と詩でないものとの差異をこそ見ることが大事だと、そう語られている言葉であるように思われる。■昔から、そしていまも、詩は様々に語られている。たとえば詩は言葉の芸術である、という言い方があるけれども、詩は芸術であるという言い方には近頃なじめないものを覚える。芸術というよりも、詩はむしろ「宗教」に近いものではないだろうか。「宗教」というと誤解を招くかもしれないが、詩とは魂の(あるいは「精神」といってもよいが)運動ではないだろうか。文字として、言葉として定着されたものが、詩として目の前に置かれるとき、我々はそこに魂の痕跡を見ているのではないだろうか。そう思って、古今の詩を──万葉の歌でも、マラルメの詩でも、わが現代詩でも──あらためて眺めてみると、このアイディアはそれほど間違っていないようにも思えてくる。■そしてまた、たとえば、詩の第1行目は神から与えられたものである、といわれる。なるほど、ここには、ある真実が含意されているかもしれない。だが、もとより、詩人は神にすべてを委ねるものではない。人為を超えたものとの渉り合いが開始されるだろう。そのただなかから、意図せざるものとして、なにものかの痕跡として、詩は到来する。■そんなことを考えながら今号の対談二本のゲラなどを読んでいると、いつしか校了ギリギリまで誌面をいじっていた。これからも、一号一号、大胆かつ繊細に更新していきたい。■創刊4号から連載されてきた長谷邦夫氏の「ポエトリー・コミック」を今号で一区切りさせていただくことにした。長谷さん、長い間ありがとうございました。なお、井坂洋子氏の「近代詩の通い路」は休載させていただいた。(お)・/p>