犬の眼
渡邊十絲子
ふと気づけば
あしもとにからだをよせて
しずかに息をしている。
もうとっくに死んでしまったのに。
椅子にかけて
だらりと垂らした手のさきを
鼻でつついて撫でろと催促をする。
鞠という名。
鞠を投げてやったことは生涯に絶えてない。
犬のからだで生まれた。
だからいちども
ことばを交わしたことがなかった。
おなじ色も見ない
おなじ時もながれない。
不意に耳をたてて闇を凝視していた。
犬笛にたましいをよばれている。
わたしに見えない鞠がおまえに飛んでくる
その音もわたしには聴こえない
ただかりそめの犬のからだが呼吸をはやめ
なにかにそなえて立ちあがろうとしているのが見えるだけだ。
この世でわかちあったものはなにひとつなく
互いをつなぎとめるなにものも
ない
それなのにたびたび彼岸からかえってきて
まだ犬の姿で
あしもとによりそう
撫でようにも
もう背骨すらない
どこにおいてきてしまったのか。
こうなってなお
ことばがつうじない
犬の眼は犬のなみだに濡れて
かたちのないわたしがそこに映る。
これが犬のかなしみでありこれがにんげんのかなしみでありこれが異種のたましいを
玩具にしてきたことのおわらない罰である。鞠だ。
誰かの手がわたしに向けてきびしい鞠を投げつづけている。
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