誌の雑誌 midnightpress 27号 |
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2004年冬 27号(2005年3月5日発売) 【主な内容 】 湯藤庸子 豊原清明 川田絢音 林嗣夫小詩集 ●ヘクトールの討ち死に「イリアッド」第二十二巻(後 ●アンケート 2004年、一冊の詩集、一冊の本。 ●詩の教室 高校生クラス・清水哲男 一般クラス・松下育男 ■表紙タイトル文字/谷川俊太郎 ■表紙「田園(ホルンを吹く人)」・目次・本文イラスト/永畑風人
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「心ある詩人は誰もがいかに詩と詩人は生きのびることができるかを考えるものだとおもう。なぜなら詩はかならずこの現在のような発達した文明社会の通念と、どこかで激突するにちがいないからだ。しかしこの種の方法はかならず長期の延命に耐えず失敗するのはどうしてか。詩人は詩を作るが、詩もまた詩人を作ることを知らないままだからだ」(吉本隆明「中原中也について」から)■迷妄を離れて、生きることはできるのか? 行住坐臥、これは避けて通ることのできない問いである。ある日、右のことばに出会った。それは、詩について、詩人について、書かれたことばであったが、含意していたのは、「迷妄はあっていいんだよ」ということだった。そのことばを繰り返し読んだとき、「迷妄はあっていいんだよ」ということばによって、迷妄から解放され、視界がひらける一瞬があった。その大乗的刹那によみがえったのは釈迦の最後のことばだった。いわく、怠けることなく励めよ。このとき、僕は、思想の生成のドラマと対面していたのだと思う。有情の喩として。■伊藤比呂美さんと会うのは久しぶりのことだった。彼女が谷川さんや正津さんと話すのを聞きながら、「四半世紀」とか、あるいは(稲川方人氏いうところの)「三十年」とか、そういう時間をひとつの単位としてリアルに実感している自分がいた。そこに含意されていたものは追憶ではない。いまを生きる強度が問われている=試されているのだ。■今号の誌面からは、詩の現在をめぐるキーワードがいくつも見出されることだろう。いま、詩は、否定的にしか——否定神学的にしか——語ることができないところがあるが、その事態そのものを否定的に考える必要はない。詩を尋ねて、詩と詩でないものとの境界を往く旅は、苛烈にして寄る辺ないものかもしれないが、それはけっして後退戦を生きるものではない。小林レント氏のことばを借りるなら、僕たちは「いつもはじめから書かなければならない」のだから。■今号から、片山裕氏に表紙と目次のデザインをお願いした。誌面の組み方、そして内容も少しずつ変えていきたい。平居謙氏の「ごきげんPOEM」が今号で終了する。平居さんにしかなしえない独自のアプローチがひらいた道は、これからの小誌にも生きていくだろう。川崎洋氏に代わって、松下育男氏の「詩の教室——一般クラス」がスタートした。ご期待ください。(お)
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