二つの詩人論 次に掲げる透谷の一文は、まさに愛山の「時代の陰影より出づ」の思いに発して筆を執ったものにほかならない。「客偶居録」中の「乞食」と題された断章(「其五」)である。

図らずも遭遇した齢五十余りの老爺と十歳余りの一組の「乞食」。一〇歳余りを乗せて老爺は木車を挽く。晩食後の涼を戸外にとる筆録者。それが二人の様を見るや「去る能はず」のままに深く凝視して知る、十歳の者の衣にある三紋。会津武士のそれと覚えて筆はかく綴る。

 

(前略)あはれ昔時を忍ぶ会津武士、(略)側目して両者を視れば、むかしながらの義は堅く、主の車を推して主の食を乞ひ、はるばると西国の霊場に詣づるものと覚えたり。吁、当年豪雄の戦士、官軍を悩まし奥州の気運を支へたりし快男子、今は即ち落魄して主従唯だ二個、異境に彷徨して漁童の嘲罵に遭ふ。然も主は僕を捨てず、僕は主を離れず、木車一輌、山海を越えて百里の外に旅す。讃むべきかな会津武士、この気節を以て而して斯くの如し、深く人間を学ぶに堪えたり。(中略・補筆~車を推すを手伝い、通りがかりの小亭に寄らせて食を供するが、言葉を交わすを抑える、なんとなれば)旧事を回想せしめん事を恐るればなり。われ先づ去る、去る時語なく、無限の情あり。(北村透谷「客寓居録」明治二六年七月)

 

 

ただし、立つところは同じでも、「情」を詩に変えられる透谷が一人詩人になり、愛山は「情」にとどまる。詩人にはなれない。詩人はさらに限定される。異端であればすべからく詩人というわけではない。当たり前ながら文脈としては、その上での「詩人の誕生」である。

この点は、二人の詩人論が明らかにする。ともに、愛山・透谷論争で知られた明治二六年の筆になるものである。簡約要点のみ記せば、一方は叙情詩論で一方は叙事詩論である。前者が愛山、後者が透谷である。

愛山のそれ(「詩人論」明治二六年八月)は、詩心は壮大で、一見、壮士の気概を詩人に求めるがごとくであるが、詩学としては前代の漢詩学にとどまる。奇しくも同じ言(理屈弊風論)を吐く。「談理は詩人の敵なり。詩人一たび道理を説けば終に理屈に陥らざるを得ず」。そして呼びかける。「詩人よ、爾ぢ感ずるまゝに歌ひ、見るがまゝに説き、思うがまゝに語れ。爾が心の奥を開きて隠すこと勿れ。爾が成功の秘密は斯くの如きのみ」と。さらに「新体詩は(略)独り湖処子の猶孤城を一隅に支ふるを見るのみ」と、実例に上がるのは、一人宮崎湖処子のみである。新時代に相応しい装飾(「音楽」論)は施されるが、詩学としては志士吟詠の域内にとどまる。「情」が文学になるか否かの岐路である。

その点、北村透谷は、「熱意」(明治二六年六月)を表題にして冒頭にかく言う。「真摯の隣に熱意なる者あり。人性の中に若し『熱意』なる原素を取去らば、詩人といふ職業は今日の栄誉を荷ふこと能はざるべし」。そして「熱意」を人間観察上に説き、人生に援用して最後を詩人論で締めくくる。

 

人生を解釈せんとする者は詩人なり、而して詩人の、尤も留意するところは、意味の一字にあり。熱意は即ち意味なり。(略)熱意はトラゼヂーの要素にして、而して、悲哀の物に対する快感の要素の一なり。人生に熱意あるは、即ち戯曲にトラゼヂーある所以なり。熱意、之れ詩人が討究すべき一題目ならずや。(北村透谷「熱意」)

 

ここには大作「蓬莱曲」(明治二四)の詩篇を思い浮かべねばならない。一文中の「解釈」「意味」が迫る「人生」の問い詰めを、長大な悲劇(トラゼヂー)に転化したのが「蓬莱曲」である。北村透谷を絶えず襲う「熱意」は、人間観としては「無限の情」の会津武士主従の散文に昂じ、文学行為(詩的営為)としては、「情」の扇情化を経てめくるめく詩行の重畳化へと駆け上がる。

類似の標題に「情熱」(明治二六年九月)がある。ここでもトラゼヂーに触れ、「尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし」として詩人論にも言及してみせる。個別に詩人を挙げての批評も行なう。例の湖処子につてはこう語る。「湖処子を崇拝する人々にして荐りに彼の純潔を言う者あるは好し、然れども余は彼の純潔が情熱の洗礼を受けたるものにあらざるを信ずるが故に、美しき純潔なりと言ふを許さず」と。

 

北村透谷

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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