2 創成期の詩と詩人

 

運命共同体下の両者 詩窓に浮かんだ最初の詩人が梅花であったのは、上掲箇条書きのとおり詩についての全般的な再認識が深まるからであるが、なかでも梅花というその存在自体が、創成期にあって『新体詩抄』(明治一五年)や『新体詩歌』(明治一五~六年)のそれと対極にあるからである。しかし対極という捉え方では、両者張り合うような関係になってしまう。詩的論争があったわけではない。ただ詩作品がそう語っているだけである。したがって状況的には一方を正統としたときの異端である。言うまでもなく正統は、詩史から見ても『新体詩抄』側である。

ただし、そうであったとしても正統は正統で、正統と言う命名で良いかの内実にかかわる問題がある。なんと言っても遠からず途絶えてしまうからである。修辞上も詩想上も。それでも正統を使うのは、表向き何事にも始まりがあるからという、形式的な前後関係による。開始上、そのはじまりに位置づく『新体詩抄』があって(註一)、はじめて『新体梅花詩集』の誕生となる。とりわけスタイルとしての「新体」――句(ウベルス)と節(スタンザー)の分かち書き、さらには詩行の連綴――は前提条件である。その踏襲なわけである。したがって踏襲は、正統の開発内で行なわれ、その範囲内であれば正統にも正統たる内実があることになる。

しかし、日本近代詩は、正統を継がない。ある段階からの態度としては全否定的である。たとえば田山花袋は、「詩想の必要に促されたるにもあらず、確乎たる主張を有して居るにもあらずして、漫に詩形製造にのみ齷齪する汝躰詩人よ。汝悪魔よ。我は汝を詛ふぞ」と過激である。明治三〇年に刊行された、諸詩人による集成詩集『抒情詩』の自詩篇「わが影」に付された「序」の一くだりである。言葉遣いの矯激さを問わなければ、すでに拠るべき代物でないのは、同詩集に共通の雰囲気である。『新体詩抄』が刊行された当時の、声調を顧みない言葉遣いの粗さに対する酷評(註二)が、国粋主義的な機運の高まった時代観とも重なって、『新体詩抄』以来の叙事性に発する饒舌性を嫌い、嫌うだけではなく「叙情」を盾に反詩的なものとして斥けるのである。

他の「序」を引けば、「新躰の韻文を作らむとせば、宜しく國語を講究して、和歌俳諧の調を味ひ」(太田玉茗)に言う「新躰の韻文」も、「妙詩を作ることを得べし」(小むろ)に言う「妙詩」も、等しく「新体詩」に対する反語である。かく継嗣の無い、一代(外山正一はその代表格)限りで途絶える家系は、後続にとっては正統たりえない。これは正統だけに終わらない異端にもかかわる問題である。両者は運命共同体である。正統・異端の別もその範囲内を超えない。

 

 

 

 

批評の視角 それでもその上で正統とする。見立てる。見立てるための視点を得ようとする。この試みに本稿は関心を寄せる。可能なら提議を目論むほどである。とりわけ、あり方としての詩人を、その存在のままに問いかけてくるからである。契機となってくれるのである。深入りは小文を歪めかねないが、それでも梅花の理解には欠かせない。しばらく冗漫な文を綴らなければならない。

たとえば詩想の問題があるとする。近代詩においては詩と個人のあり方からも重要課題である。この場合、個人とは人格のことである。それが彼等『新体詩抄』においては、詩想が解体しても人格には及ばないのである。及ぶのは詩人の部分だけである。その後の日本近代詩からすれば、詩人の解体とは、人格の解体と無関係ではいられない類のものである。それが手傷を負わない。手負い状態とならない。詩想の解体が、詩人としての彼を失っても人格を残すのである。ほとんど無傷と言っても好いくらいである。なぜか。詩想が、詩人と人格を媒介しないからである。三者は、内部的な緊張関係(詩人‐詩想‐人格)に高まらないのである。

これを単なる詩人の未成立としてしまうべきか。断じてしまうべきか。未成立に求めてしまえば、話はそれで終わってしまう。実際そういう捉え方――『若菜集』以前という捉え方が少なくない。『若菜集』を日本近代詩の実質的なはじまりとするからである。時期区分に一班を示したとおりである。しかし本稿は、時期区分以外ではその立場をとらない。むしろ、「浪漫期」に対するアンチテーゼとしての創成期の特徴と認識し、合わせて本稿の批評の視角とする。

 

(註一)  詩史研究では、「新体」で捉えられる詩は、『新体詩抄』以前に遡ることが通例で、古くは蕪村にまで筆が及ぶが(鈴木一九六九)、通常は一九世紀に入ってからの長崎通詞や幕末の勝海舟などの翻訳に初発が求められるが、いずれも点的かつ痕跡的である。それ以上に本質的なことは「詩想」である。『新体詩抄』の詩的必然は、本質的に非叙情である詩想さらには詩学からしても、蕪村を含めそれ以前とは截然として区別できるのである。本稿では同『詩抄』を始まりと考える所以である。

(註二) 次は同時代(明治二二年、『國民之友』)の酷評の一節である。「試ニ之ヲ繙キテ其一班ヲ窺ニ詩ニモアラス歌ニモアラス又文章ニモアラス而モ其辭甚拙劣鄙陋ニシテ讀ムニ耐エス」「今玆ニ贅セス余此新躰詩ヲ評セバ恰モ草木ナキ墓石原ヲ見る視ルガ如ク或ハ枯木ヲ植テ作リタル庭園ノ如ク死枯ノ感覺ヲ生ズルガ爲ニ忽厭忌ノ頭痛ヲ發セリ」(池袋清風)(矢野一九七二より)。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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