新体詩と「詩人」 そこで問いたいのは詩人である。無傷なままで詩人と言えるかと。言えないのではないかと。それを冒頭では再評価的に容れたいと表明しておきながらもである。でもたちまち彼等からの反駁に遭遇してしまう。我々は詩人であることを意図的に拒んだのだと。それが我々の立場だと。
たしかに彼らの一人巽軒居士は言う。「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ」(「玉の緒の歌(一名人生の歌)」序言)と。それに当時、詩人と言えば、いまだ詩(漢詩)を作る人つまり漢詩人に第一義的であった。狭義には限定的だった。詩人なる呼称は、歌人の対義語として成り立っていた。いうまでもなく伝統的呼称(呼び分け)である。
しかも文意からすれば、「漢詩ナルベカラズ」のくだりは、単なる呼称上に彼らとの差別化を言わんとしているだけではなかった。内的なそれを声だかに唱えたいとする言い回しであった。したがっていまだ漢詩人に限定的な「詩人」を以って自己を規定するわけがなく、当然のこととして個別化を企図しないで済む一人称たる、「我輩」「我等」「吾」「余(予)」などの言い回しとなる。
それに『新体詩抄』段階では、新体詩という名前の命名は、「詩」(漢詩)からの差別化からも必須であったが、作る者に対してのそれは必要条件ではなかった。日本近代詩は、後に詩人を汎く名乗るようになるが、はじまりではそうではなかった。新体詩の特徴である。それはそれでまた別な問題を引き寄せるが、それは後述とし、どのように使われ出したか、その経緯をすこし辿ってみよう。詩人の顛末である。
詩人の初出関係 まずは初出関係。事の性格上、本来、学問的記述が要求されるが(とくにはじまりの特定に当たっては)、もっぱら詩読を本旨として詩窓に佇む立場故、研究現状を疎かにして進めることにも、存外無頓着である。逃げ道にしているわけではないが、知見の範囲で進める限り、早い使用例としては、明治一八年一〇月発刊『十二の石塚』(湯浅半月)の植村正久が寄せた「序」の文中に見出すことになる。しかも実質的な使われ方である。同文中から二例を掲げる。一つは、一般論上に新しい詩人の出現を望んだくだり(a)、一つは、湯浅半月に特化して彼の今後への期待として綴られたくだり(b)である。傍線は引用者。
a 吾邦詩學上今日ノ急要ハ一家新創ノ詩人ノ現ハレ出ズル事ナルベシ
b 望ムラクハ尚發憤厲精シテ思想ヲ煉リ詩情ヲ養ヒテ世ヲ風靡スル一家新創ノ詩人トナラレヨ
使用例としては、詩人観を含めていずれも先駆け的である。明治一五年発刊の『新体詩抄』からは三年後、明治一六年八月発刊の『新体詩歌』第五集からは約二年後である。一般化にはまだ間がある段階で使われたのは、キリスト教絡みであったことが予想される。植村正久は、明治時代を代表するキリスト教の指導者(牧師・神学者)である。『新撰讃美歌』編者(訳者)の一人でもあり、詩歌論にも一家言を有する、早くからの文学通であった。キリスト教に身を挺する自己存在は、伝統詩歌に対して自己差別化を促す上に積極果敢であった。
井上哲次郎(軒居士)
植村正久
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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