3 「詩人」から詩人へ

 

詩人の顛末を日本近代詩として見れば、当初の初出関係は引き継がれない。植村(すなわち半月)や、透谷、残花にとっての「詩人」の連続を截ったところに新たに詩人をはじめる。したがって初出関係は、一度ご破算になり、新しい初出関係が求められることになる。呼び変えれば再出関係である。別の詩人である。日本近代詩は、図式的に過ぎるかもしれないが、手っ取り早く言えば、二様の初出関係、すなわち二通りの「詩人」を内包していた。これをどう見るか、日本近代詩のダイナミズムとして見るとき、本稿を創成期に誘引する力となる。

 

漢詩人の詩学 まず、詩人を時代的に遡る。漢詩人へである。遡るのは、後に二様の詩人を知る上に有用だからである。ここでは、本来の詩人すなわち漢詩人の「詩学」が取らなかった、拠るべきでないとした「詩学」を見る。初出関係に早々と関係するのを知ることになる。

なぜなら漢詩学では、「發憤厲精シテ思想ヲ練リ詩情ヲ養ヒテ」のうちの「思想ヲ練リ」には拠らないからである。伝統詩にとって、植村が詩人の条件の一つとした「思想」は、単に抵触するだけでなく、自らを否定するにも等しいものであった。詩学の中核に触れかねないからだ。「思想」についてはこう説かれる。傍線は引用者。

 

當今ノ詩ニ二弊アリ。淫風ト理屈トナリ。詩人ノ詩ハ、淫風ニ流レ易ク、文人ノ詩ハ、理屈ニ陥リ易シ。二者相反ス。其害ハ一ナリ。淫風トハ何ゾヤ。獨リ男女ノ際ノミナラズ、梅ヲ詠ジ菊ヲ詠ジ、字句ヲ雕繪シ、綺靡浮華以テ機巧ヲ競フモノ、皆淫風ナリ。理屈トハ何ゾヤ、獨リ法語ノ言ノミナラズ、敍事ヲ主トシ、議論ヲ専ラニシ、文ヲ以テ詩ト爲スモノ、皆理屈ナリ。(後略)(『淡窓詩話』「下巻」「汎ク詩ヲ論ズ」中より)

 

 

 

ただし、この『淡窓詩話』(中村一九六六)は、刊行年からすると明治一五年である。したがって年代的には植村と同時代であるが、同時代詩書ではない。書の内容は明治を遡る。同書は、幕末に説かれた詩学の伝来語録(門下生の筆録)の板行である。

語るのは広瀬淡窓である。天明元年(一七八一)、豊後に生まれた淡窓は、同地にあって儒を講じ私塾(咸宜園)を営んで多くの門下生を抱えた、その名を広く知られた幕末の詩人儒者である。没年は安政三年(一八五六)。全国から集まった門人の数は、前後三千人に及び、名声は明治に深く及んだという(同上中村)。

 

 

上掲部分はその詩論の一部にすぎず、「初出関係」を念頭に置いた選択的な引用である。興味深いのは、詩を作るものに「詩人」と「文人」の二樣を掲げている点である。頭注によれば、「詩に主力をそそいで作る人」(詩人)、「文章に力をそそぐ人」(文人)とある。あえて二者を上げるのは、淡窓が「當今ノ詩」を論難するためであり、使用法としても狭義の詩人であろうが、「弊風」(悪い風)でしかなかったのは、江戸中期を代表する漢詩人の一人祇園南海も唱えるところで、彼は「詩ハ理屈ヲ述ベ、議論ヲスル道具ニ非ズ」と説く。『詩學逢原』(宝暦一二年(一七六二)))の一くだりである(同上)。漢詩学にとって理屈弊風論は、優れた詩人になるためにも修得しておかなければならない伝統的な詩学であった。

 

広瀬淡窓

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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